善と悪 七通目 秦雅則→三野新 (5月25日)





死かばねに惹かれる、三野君へ




こんにちは。こちらは恋にも似た空しい心模様ですよ。最近は「さようなら」が多く「はじめまして」が少ないせいか、金土日の二泊三日は飲み続けるばかりで、心が白々しく体を軽蔑しているようでもあります。大体、そんな暇があるのであれば三野君の新作を観に行きたかったんですけど、あまりにも滑稽な三十代の私用によって、飲み会には行けても作品を観に行くことは出来ないという状況でした。ごめんね。ただ、三野君にとって今回の新作発表の機会も充実したものだったようで何よりです。いつの日か三野君のやっている、写真をパフォーマンスを通して表すという、飛び道具を使用しているとしか思えない方法論についても詳しく聞かせてもらいたいところです。しかしながら現時点では、お互いの作品に目が行き届くほどに話は進んでいないようですから、もう少しだけ前提としての話をしていきましょう。それでも、この往復書簡の中で言葉にしている思考と、お互いが日々作りあげている作品に似通ってくる部分もあるようで、それはとても面白い感覚ですね。例えば、三野君からの手紙に書かれてあった「三野君にとって、一番魅力的な身体っていったいなに?」という打ち上げの席での質問に、三野君が「死体…ですかね」と答えているあたりなんて、読みながら吹き出してしまいました。そんなこと言う初対面の奴が僕の目の前にいたら、面白くって仕方がなくなりそうですよ。


ただ、死体ね…。


死体の話を意気揚々とするのもキョンシーみたいなテンションではありますが、ちょこっと考えてみましょうか。
死体や写真、ときどき雪について。



前回の話の中で、僕は仙人になりたい農民というキャラクターを演じていましたが、はからずとも仙人というものは不老不死を成し得た人間であると言われています。なので、仙人になりたいということは不老不死とは何なのかを探求している人間ということになるのでしょうね。その点で、三野君から指摘された「秦さんは、死体を扱う仕事を隠れてしているのではないか?」という部分は大正解と言わざるおえないでしょう。そして、様々なマッドサイエンティストのやるような実験を繰り返しても、未だに不老不死の謎を解くことが出来ず。それこそ空しい気持ちになっているのではないかなと、自分自身のキャラクターではありますが想像して笑ってしまいます。
でも何故、写真は死体であり、写真を撮る(プリントする、展示する、写真集にする)という行為が、死体を扱う行為に似ていると僕達は考えてしまうのか。その辺りについて、もう少し深く掘り下げていくと、今までの支離滅裂に思えていた事柄が全て繋がってくるのかもしれません。
僕は今も書いた通りに、写真を撮って、焼いて(プリントをする)、展示して、その作品を写真集にするという一連の行為が、死体を扱うことに似ていると感じています。もう少し、分かりやすく言い変えると、時間を止め(撮影)、それを凝視することが出来る状態にし(プリント)、他人も見ることの出来る状態へと置き(展示)、集大成として保存する(写真集)。そういう一連の行為を、写真家であれば多かれ少なかれ経験することがあると思います。そして死体の扱いにも、時間が止まり(死)、だからこそ凝視することが出来る状態となり(死体)、他人も見ることの出来る状態へと置かれ(葬式)、集大成として保存される(思い出)という一連の行為があります。そこには、自発的なのか他発的なのかの違いはありますが、どうしても似通った儀式のように思えてなりません。ただし雪の回でも話をした通り、死体と雪が似てはいても違うものであると感じられるように、死体と写真というものも、似てはいても違うものだという認識は崩してはいけないでしょうね。当然ながら、死体は人間の形そのままを保っていますから、同じ人間に対して儚さを写真の何十倍も何百倍も感じさせます。勿論、写真も人間の影のような形であれば留めることは出来ますが、儚さは大袈裟に騒ぐほどのものではないと思っています。そこには、やはり雲泥の差があるわけです。ただし、その差があるからこそ写真であれば凝視し続ける(繰り返し凝視する)ことが出来るという逆説も効くと考えられます。弱い毒が薬になるというような例えだとちょっと変ですけど、人間の様々な欲望を丁度よい濃度で満たすものが写真であるとも言えるのです。
そして、本来は丁度よく満たされれば満足出来るはずなのに、その濃度では満たされなくなってしまっているのが、写真家という生業の人間なのではないでしょうか?だからこそ、自ら写真機を手に取り、自らの周りの世界を写真へと極端に寄せていくことに魅力を感じてしまっているのではないでしょうか。そう考えていくと、写真家というのは、程よく与えられる生や性の快感と、それに伴って与えられる死や老いの感覚を丁度良い濃度ではなくジャンキーになるほどに欲しているだけなのかもしれませんし、とても滑稽な動物です。
ただ、それって、なんてファンタジーな話なのでしょうか。人間含め生物というのは操り人形のように生へ性へと動かされていくのが当然なのに、その天上からの糸を切って抗うかのように自らの老いや死を見つめたいと望み、他人のそれを見たいと望む。その努力って(ここで話している努力というのは、死を想うというような死を受け入れるための努力ではなく、死を受け入れないための無謀な努力のことだろう)何を生むのでしょうか?科学者であれば不老不死の肉体を生むかもしれませんが、僕達はしがない写真家です。生み出すべきは、それこそ不老不死の精神でしょうか?
そう考えてみても、ちょっとした神話や童話に出てくる愚鈍で純粋な登場人物のような、ロマンティシズムとセンチメンタリズムです。現実を、他人を、見よう見ようとした結果が自己愛に塗れたファンタジーになっているというのも安易な矛盾ではありますが、やはり写真家は、いやとりあえず僕は、屍の体に体が惹かれているわけではなく、屍のような体に心が惹かれていると言うべきなのでしょうね。



例えば、こう言ってみてはどうでしょう?理想の身体は「絶対に目を覚まさない身体」であると。限りなく死に近いものを背景として、不老不死であることをも連想させる「眠れる美女」は写真にとても似ている、と。








PS. 屍=残雪 雪の結晶=眠れる美女 写真=屍=残雪≒雪の結晶=眠れる美女=写真  ただねー、決して結ばれることのない恋人が、死体や残雪であれば切り刻んで儚さを消してしまってもいいけれど、眠れる美女ならば切り刻まずにそっとしておきたいものだね。




秦雅則