善と悪 六通目 三野新→秦雅則 (5月16日)





仙人になりたい農民/秦さま


お元気ですか?一ヶ月以上、お返事が開いてしまったこと、どうかお許しください。
というのも、4月末にやった僕の新作の準備で、まったくこの手紙を書く時間がなかったのです。
今回の作品は、サミュエル・ベケットという、アイルランド出身の劇作家・小説家の『Film』という映画台本を、壮大なる引用=原案として作られた写真展示/舞台芸術作品でした。あるとき、アフタートークだったか、打ち上げの席だったのか失念してしまいましたが、こういうことを聞かれました。
「三野くんにとって、一番魅力的な身体っていったいなに?」
と。僕は、しばしの逡巡のあと、全く自分でも意外な言葉が口から出ました。それは、
「死体・・・ですかね。」
という言葉。いまこの僕の言った言葉を思い出してみて、そして、改めて書いてみて、秦さんからの前回の手紙との奇妙な一致を感じざるを得ません。僕が前回の手紙で書いたあの豪雪について、秦さんは「一寸の純粋さも感じられない屍のような姿である。」という比喩を用いて説明されていまして、続いてその言葉を打ち消すように「否、まだ屍のほうが人に似ているだけ儚さを持っているが、雪のそれは何者にも必要とされず、何物としての名前も与えられない。」というセリフを続けて書かれている。秦さんにとっての死体=屍という言葉と僕の共振性は、何も今に始まったことでもなく、また僕と秦さんという、個人的なレヴェルだけでもなく、写真家であるならば一定の、普遍的な問題として開かれたものでもあるのですが(写真を死体として捉えることは、写真史的に見ても頻出します)、特に秦さんの作品に限って言えば、ステートメントにも書かれるほど、その屍として、死体として写真を重要なテーマとして考えていらっしゃる印象です。そして、僕は、この死体=写真をいかに生き返らせるか/生き返らせられないか、という手法に、僕と秦さんの違いもあると考えている節があって、そして、その違いの面白さがイコールで写真の面白さとも通じる部分もあると思っていた、というのも当初考えていたことの一つでした。
 それに加え、今回秦さんからの写真を「二次的に経験することを撮るという写真の差異」についての質問を受けて、写真のさまざまな矛盾や疑問が、いま改めてむくむくと萌芽しております。というのも、写真は、そもそも二次的な経験をすることを目論まれたメディアである、ということがあります。なので、秦さんがおしゃっることは、もうすでに二次的な経験を再び二次的な経験として写真に落とし込むにことを考える、というちょっとなかなかに難解な、というか、複雑なレイヤーを持っている内容である、ということになります。
 以上の考えは、次のように秦さんに当てはめることが可能ではないか、と誤解を恐れず、言い切ってみたいのですが、それは、仙人になりたい農民であると仰られた秦さんは、実は、死体を扱う仕事を隠れてしているのではないか、ということです。これは一体どういうことなのか。
今回冒頭で述べた死体問題(勝手に問題と命名しちゃいましたけど)によって、僕は秦さんのいう「足りないシンボル」(雪と写真が似ていることにおける)を自分の問題に引きつけて考えることができるかもしれない、という希望が見えた気がするのです。
仮定、というかもはや妄想の域になりつつあることですが、死体を儚さであったり、感情が自然と湧き出てしまうものであるならば、それを切り刻んだり、原型が無い状態である状態まで溶かすなどして、その死体っぽさ、みたいなものを、もはや空しい雪同然の状態にまで持って行く。もしくは死体と似た空しい雪の状態に持って行き、感情と残雪特有のなにもなさ・空しさとの往還を宙づり状態に仕立て上げ提示する、ということが写真における二次創作のコンセプトとして今回の往復書簡と重なるのではないか、と考えます。
ただし、僕にとってやはり身体は重要で、死体に感情移入しようにも、僕は死体になったことはないので想像することしか出来ず、そもそも死体としての自分、ということを想像することが果たして重要なのかもわからないので、やはりそこは死体を扱う身体としての自分、ということでしか、立ち位置を表明できません。こう言うことを述べると、ネクロフィリア(屍体愛好者)としての写真家像がありえるのかもしれませんが、湯灌業者として、葬儀社の仕事をしている登場人物の設定の方が正しいのかもしれません。
その点において、日本では死体を火葬してしまいますので、死体そのものは容易に骨と灰になってしまい、「雪」になってしまいます。一方、9.11後のアメリカは、土葬文化であり、ゾンビ発祥の地でもあり、その死体は、写真家たちによって、容易に死体と似た雪に仕立て上げられ、広く表現として普及していったのではないか、と考えます。そう、それはまさに死体が残ってしまう文化である故に。
日本の3.11以後、津波によって飲まれた遺体の写真がインターネットで広く流通しましたが、その死体は表現として日本においてはまったくもって受け入れられることはありませんし、個人的にも極めて難しいと考えます。もちろん、それは比喩的な「死体」レヴェルにおいても、受け入れることは難しい。この震災後の「死体」の扱いについては、どの表現分野においても言えることかもしれませんが、一定の距離感と葛藤が内在します。つまり、自分自身との被災地、被災者との距離の遠さ、近さであったり、厖大なナイーブな問題を内包している状態、状況に対するなにもできなさ、もしくはその自分自身のなにもできなさにおける絶望であったり、失語を選ぶという行為かもしれない。もしくは遅らせる、ということ。(ここら辺の批評的な考え方は佐々木敦著『シュミレーションズ』文藝春秋社刊、に自分自身は影響を受けています)
ただし、今回の論点は、写真に論点を絞って考えることをお許して頂きたいのですが、残雪の空しさ、には、ある一定の、そして確実に交わることが出来ない距離の遠さがあるのではないか、ということをここではとりあえず述べておきたいのです。
そして、その距離の遠さは、決して結ばれることの無い、写真家による「死体」への永遠の片思いなのです。だからこそ、秦さんは空しいのではないでしょうか?
その空しさは、記憶に対する空しさにも通底します。中学生や高校生の時、あのとき、なぜあの片思いの人に言葉を、思いを伝えられなかったのか、ということを例に挙げてみますが、それはその時の感情以上に、いま、ここの、現在の記憶の感情の方がよりいっそう片思い(それは時間的な距離の長さに比例していっそう片思いになっていく)なのであり、空しいのです。そして、その空しさは、普段火葬によって、容易に「雪」にしていく日本人にとって、「死体」と向き合うことを避けてきた人間にとって、極めて重度な症状として罹患してしまうのでしょう。
では、いったいどうすればいいのか。
僕は決して、それが両想いとなって、それがハッピーエンドになればいい、とは考えていませんし、それは世界的にみても無理な話です。
ただ、9.11以後の表現を僕は死体と似た雪と述べましたが、僕にとっては、空しさこそが重要であると考えます。そう、死体と似た雪、と死体と似た空しい雪、その間に横たわる、その空しさには、この往復書簡全体に筋を通す、偽りの、いや、物語としての想像をこそ当てはめてみるべきであると考えます。秦さんの片思いは、原初の、あらかじめ決められている、決して結ばれることの無い未然の恋人は、いったい誰なのでしょうか?
このお手紙では、残雪から導きだされた、極めて個人的な、だが極めてフィクショナルな、だが極めて普遍的な、あなたの眼の中の恋人について、若干のゴシップ記事的様相を呈して、聴いてみたいと思います。
秦さん、最近、恋していますか?







三野新