鈴木諒一「水辺のそばで眠ること」 ④





4.




−舞台−




 割れた唇にリップクリームを塗り終わったころ、火星人の洗濯機はとまった。おわりの合図を告げるおなじみの甲高い電子音のこだまが、衣類の帰還とそれを回収しに部屋をでる火星人の登場をつたえる。
 北側に面した共用廊下は陽の光がまったくもってあたらないかわりに、向いに並ぶ南向きの窓辺からの好奇の視線を容易にあつめた。そこに暮らす例のおばさまたちは洗濯ものを干しながら、あるいはひなたぼっこに身をまかせながら、向いのぼろアパートに住む人間がなにか風変わりな話の種を落とさぬものかといつも期待しながら観察していた。
 そうした意味で洗濯機の電子音は演者の登場を知らせる開演の鐘の音に等しかった。舞台の幕がひらき、玄関の扉がひらく。洗濯ものを洗濯機から取り出すという古典的生活演劇。彼女たちはその第一の鑑賞者であり、批評者であり、理解者でもあった。演者よ、はやく出てこいと暇を担保に念じつつ、それでいて他人の生活にはなんの興味もない、家事にせわしい健全な主婦をよそおう。
 わたしは、おばさまたちの視線に少しばかりうんざりはしていたものの、それに釣り合うだけのあきらめとおかしみをもって受け入れてもいた。というのも、彼女たちは大概ぼろアパートのすぐ目の前の道ばたでヒソヒソ話に勤しんでいたので、新鮮で鋭敏な批評的おしゃべりのほとんどが我々住人に筒抜けだったのだ。その日の演劇を彼女たちがどう捉え、どう評価したのかは、海の向こうの批評雑誌の星取り表なんかよりはるかにはやく部屋に届く。
 おばさまたちは「洗濯機と井戸の類似性」から「湿り気だけをのこす中心のない自己としての住人」を語り、「洗濯ものを回収する所作」から「浮上するものと浮上させられるものとして日常に降臨する天使性」を見出し、「洗濯かごと収穫の振る舞いの関係性」と「いますぐ身にまとうことの出来ないものを回収することの喜劇性」を抱き合わせることで、なぜか「竹の子のあくぬき方法」に論をすすめ、果ては「竹取物語の発生」へと思考を飛躍させた。考察はいつでも実に多岐におよんだ。
 結果的に、我々ぼろアパートの住人はおばさまたちにちょっとした洗濯演劇を披露し、彼女たちはその礼に「ここだけの話」をやたら連呼する洗濯演劇批評のラジオ番組を提供しているに相応しかった。
 そんな偶然にもフェアな関係性のうえで、わたしは彼女たちとの些細なかけひきに興じた。たとえば洗濯物の回収に部屋を出るタイミングを15分ほどずらしたり、逆に電子音が鳴るのと時を同じくして玄関の扉をひらいて開演の時間をかく乱するのだ。
 なにせひとたび演者に躍り出れば、ひとつのミスも許されない。おばさまたちともう何度も視線を交えたことのあるわたしには、そのきびしさがよくわかる。彼女たちは目が合った途端になにかにひどく怯えた表情をもって見ることの暴力性を語り、わたしが会釈をかえす間をはるかに凌駕する俊敏さでカーテンをずらす。自らの弱さのすべてを一瞬で押し付ける方法を彼女たちは心得ているのだ。なるほど、そうした演出には見習うべきものが多い。そして舞台の幕引きを譲ってしまったそんな日の批評は、まったくもって聞くに堪えないものだった。




鈴木諒一 / SUZUKI Ryoichi
1988年静岡県うまれ。
web :http://www.suzukiryoichi.com/