善と悪 三通目 秦雅則→三野新 (2月8日)





背景、雪


ご機嫌いかがでしょうか?丁度、BGM的に流しているテレビの中の有名人が、そういう言葉を口にしています。三野君も、テレビの前の皆様と同じように機嫌良く健康であれば何よりです。こちらはどうかと言いますと、元気かと聞かれれば元気のような気もするし、健康かと聞かれれば健康のような気もするっていう抽象的な心と体で、多忙な日々を見過ごしています。ただ、今日は特別にやることもありませんし、雨なので、ビールでも飲みながら三野君への手紙を書き綴っていきたいなと思っています。そして、あわよくば一時間後の昼を過ぎた辺りから、天気予報の通りに雨が雪へと変われば好都合なのですが、そればっかりは僕にはどうすることも出来ません。なので、あわよくばの期待を持ちながら、この手紙を書いているということだけを伝え挨拶と変えさせてもらいますね。


それでは、早速本題へと進めていきたいところなのですが…まだまだ雨が降り続きそうなので、本題に入る前にちょっと異なった話をさせてもらいたいと思っています。この場合の本題というのは、雪の話ということになりますので、今しばらくは雪の話とは異なった話をしていきたいという意味です。では、しばらくの間お付き合いください。
先日の三野君からの手紙、興味深く読ませてもらいました。その中でも特に興味深かったのが、三野君が人間のことを性善説に乗っ取って見ているのだろうなという部分があったことです。僕はどちらかといえば、性悪説のほうが理解しやすいと思っている捻くれ者なので、三野君の書いている内容について驚くところがあるのと同時に、写真の話をする上での大まかな筋として共感し合える二人にも関わらず、根本的なところで結びついていなくて平行線を走っているのだなと分かり、とても面白く感じました。そして、その些細であり根本的な違いというものが、この往復書簡をしていく上で大切なことを示唆しているようにも感じています。では何故、僕は性悪説のほうが理解しやすいのかという話をしていきたいと思うのですが、この段階では僕が捻くれているからとしか答えようがありません。それに、ここで性悪説や性善説について書いても、ただの堂々巡りで終わってしまうのは目に見えていますから、代わりにこれ以降の往復書簡をスムーズに進めていくためにも、僕の表現というものについての考えを性悪説に乗っ取って少しだけ書いておきたいと思います。
先ず前提として、僕は自己表現というものを悪だと考えています。その悪の中には、喜びや快楽という悪、悲しみや苦痛という悪が堂々と存在を認められ、それこそサディスティックにマゾヒスティックにと臨機応変に自己の世界へと影響を与えます。そして少しの時間差をおいて、当然のように他者の世界にも影響を与えているものだと捉えています。ただ、その悪である自己表現というものを、善へと変えていくのも自己表現をしている表現者その本人であるはずだと考えています。それは、芸術家など表現を職業としている者以外でも同じことが言えますし、事実、自己表現をして喜ばれる場合というのが数多く身の回りにもあると思います。例えば、子供の自己表現を悪だと思う人間はこの現代日本においては少ないでしょうし、大人の場合でも、スポーツなど他者から見ても心地よいと思える自己表現は沢山あります。なので、その悪であるはずの自己表現を善へと変える力や、環境(子供の場合は、外見や親の存在=環境)を持つことが一番の善であるという風に考えていけると思いますし、その考え方であれば性悪説に乗っ取った表現の考え方ということになるのではないでしょうか?どうかな?あと、補足をするとすれば、表現には自己表現というもの以外の表現(他者との繋がりをより重要視した表現など)もあるという認識でいるので、これだけが表現に対しての考えだと言うつもりはありません。しかし、基本的にはそういう考え方も出来るかなってところで纏めておきたいです。それに僕自身も、自分の中にある喜びや快楽、悲しみや苦痛を形にして表に出したいと思っていますし、その欲望を抑えきれない冴えない写真家ですので、少しでも自分の自己表現が悪から善へと変わっていくことを願っている部分があるのだと思います。そして今、この文章を書きながら思ったことなのですが、僕の認識としては、生命を持ち選択をすることの出来る人間の側に全ての善悪の根源があると考えているようなので、表現によって形作られたもの(僕達の場合は写真)に善悪があるのではなくて、それらを扱う者に善悪は存在するということになるのかもしれません。三野君は手紙の中で「僕自身、一度も写真に対して善か悪かで考えたことはありません」と書いていましたが、それは今、僕の言っていることとはまた少しニュアンスが異なりますよね?今の三野君の言葉を引き合いに出して話をするならば「僕は、何度も写真を扱う者に対して善なのか悪なのかと考えたことがあります」ということになりそうです。そして、先の発言とは単純に矛盾してしまいますが、写真を扱う者とは、写真を作り出した者なので、写真自体の善悪でもあると言えるような気もします。その辺りのことも矛盾含めて纏めておくと、写真というものは自然物・生命体ではないために、人工物・無生命体となるわけですから、それを扱う人間の善と悪が写真の善と悪に大きく影響していると言っていいんじゃないでしょうか。そして、この発言自体も、ニュアンスとして三野君ととても近いところで平行線を保っているように感じています。三野君は、この絶妙な違い、些細で根本的な違いについてどう思いますか?率直な意見を聞かせてもらいたいです。



なんて、全てを投げっぱなしにしたところで、雨が雪に変わってきました。


只今の時間、十三時十五分。雪。


只今の時間、十三時二十三分。雪。


只今の時間、十三時二十六分。雪。


一応、これから本題に入っていくんだと思って、雪を見ながら、これはなんなんだろう?とか考えつつ、雪の写真を撮ったりしていました。ただ二十分もの間、バルコニーでふらふらしながら考えていても、結局のところ何も考える必要がないと思わせるのが雪の凄さかなと思っただけで、時間は刻々と進んでしまい体が冷えただけなんですけどね。その中で、あえて言葉に出来るものを探してみるならば、雨が視覚しづらく雪が視覚しやすいというのは、粒の大きさや白色というのは当たり前のことですが、その大きさの差によって地上に落ちてくる速度に違いがでるためだと思ったところでしょうか。それは、空気抵抗が雨よりも大きく働いて落下速度を下げているからだと推測出来るのですが、その速度の違いというところに今回は目をつけて話をしてみたいと思います。それが、三野君が僕の雪にまつわる話の中で問題視してくれた三つの言葉「可視化」「記憶」「足りないピース」の中の一つ、「可視化」の話の続きということになりそうです。ただ、雪が雨とは違い可視化しているということが現象として心象として写真的だという話をする際に、大きさによる速度の違いという部分を取り出して話をしていこうとすると、あまりに短絡的なようで自分でも驚いてしまいます。ですが、この考察が雪と写真の関係性を探っていく上で何かしらのヒントを残してくれれば嬉しいなと思いつつ書かせてもらいたいです。
それでは、雨と雪の違いについては前回の手紙にも書いたことなので省きますが、上空には雪という結晶の状態で存在しているものが、降ってくる地上の気温によって、雪のままだったり、雨になったり、揮発してしまったりするものらしいということだけおさらいしておきます。そんな、雨と雪ですが、今回のように速度だけに集中して考えてみると、強引に写真の話に結びつけていくことも出来そうです。例えば動画とは、静止画の連続ですが、その静止画の連続投影の速度を早くすればするほど(一秒間辺りのコマ数を多くすればするほど)スムーズに動いているように見えますよね。それと同じで、速度を遅くすると静止画をコマ送りしてるって感じが目に見えてしまって、うまく脳が錯覚を起こしてくれません。それと同じように、雨は前者のスムーズな動画で雪は後者のコマ送りしてる感じが凄い動画であると言うことが出来るのではないかと思います。それを、逆説的に言うと、雨は通常の人間の視覚では静止画として見ることは出来ないが、雪は静止画としても見ることが可能かもしれないということになります。その、静止画で見ることが可能かもしれない速度というのが、今回の「可視化」についての話の中でのポイントであるように感じます。これ、ポイント①ですね。
ここで一度、雪の話を置いておいて、写真の話に戻したいなと思います。今まで話をしてきた雪のこととは似て非なる話なのですが、写真は常に動いているはずの世界を静止画にすることが出来る道具です。その写真の、一番の目的となる行為を的確に現す言葉は、三野君の言うところの「いま、ここで、目の前を、撮るか、撮らないか」で説明出来ると思いますが、無茶な解釈をすれば「次の機会に、どこかで、カメラの前を、撮るか、撮らないか」とも言えるな〜と僕は感じています。経験したことの記憶の束を、何かのきっかけによって開いた瞬間に、カメラの前の光景を静止画として保存したいと思うことがありますし、僕の写真の選択の基準はそういうものが強いのかなと思っています。それは、脳の中での記憶と光景との間違った一致であって、些細なデジャブのようなものだと考えてもらえればいいかと思います。そして、これがポイント②です。
今、何故こんな珍妙な話をしているかと言いますと、三野君の言うところの「いま、ここで、目の前を、撮るか、撮らないか」では、写真と雪の類似性を示せないからです。そして「次の機会に、どこかで、カメラの前を、撮るか、撮らないか」という一見、写真の機能や写真家の行為を否定するかのような言葉であると、雪との類似性を証明することが出来ます。うーん、やっぱり証明って言うと大変だから、なんとなく似ているなって言うことが出来ますって感じにすると、つまりは両方に起こっているのは脳の錯覚ということです。ポイント①で話をした、雪が静止しているように見えるという錯覚と、ポイント②で話をした記憶と光景が重なりあうという錯覚、その二つは全く違う事柄のように感じられるかもしれませんが、実のところとても似た作用が脳内で起こっているのではないかと、僕には思えるのです。そして、その両方が示し合う錯覚は、写真にしか出来ないことである「全く同じ場所、静止した、モノを何度も、まさに何度も、見返すことが出来る」という特異な状況を作り出した場合に起こる、脳の錯覚と興奮にも似ているように思います。それは大きな錯覚ではなく、幾つかの条件が眼前に揃えばいつでも起こりえるような小さな錯覚、だからこそ興奮出来ることなのだろうと思いますし、いつまでも眺めたいと思ってしまうのでしょう。それに、本当に簡単に錯覚を起こしてしまう脳は、その錯覚に錯覚ではない意味を持たせようと努力し、脳内の様々なページを捲りあげ探しだそうとすることに熱をあげ興奮するのではないでしょうか?それは、ただの麻痺状態のフリーズのようなものかもしれませんし、ただの情報処理中のバッファのようなものかもしれません。でも僕の脳で、その熱を持った興奮が起こるのはいつも、写真を見たとき、写真を撮ろうと思ったとき、雪を見ているとき、ということになりそうです。よって、僕が一通目の手紙で書いていた可視化というのは、その言葉通りのものではなく、眼前でいつか見た光景を、脳内でもう一度見返してるというような気がする場合に起きる、超可視化のようなものなのかもしれません。



そんなところで超見たいテレビが始まってしまいそうですから、今回の手紙はここでおしまいということにしたいと思います。
あと、今回は錯覚錯覚とばかり書きすぎて触れることが出来ませんでしたけど、三野君からの手紙に書いてあった、戦隊もの、怪獣もの、特撮というのが、どうしても気になっています。ただ、雪というノンフィクションのものを語る場合に、極端なフィクションを含めるのが難しくって書けなかっただけなので。いずれ、生物を無生物化してしまう写真や、無生物を生物化してしまうフィクションを、生物と無生物の中間であると仮定して、怪獣・戦隊ものからアニメ・漫画など、やがては幽霊やUFOを信じるか信じないかっていうような、眉唾ものの話まで進めていけたら面白そうだなって思っています。



それでは、ごきげんよう。お返事お待ちしております。