阪本勇「猿と天竺」②





鉄を運ぶ


牛丼一杯ですら響いてくるような預金残高は常に僕の不安材料だったので、上京翌日先ず最初にしたことはアルバイトを探すことだった。
食器類や生活必需品を買い揃えに行った100円均一の店頭に置かれてあった無料の求人誌を全種類持って帰った。大阪の実家近くの居酒屋でアルバイトしていた時は、その地域が大阪の中で特に田舎だったということもあってか、深夜であろうが時給は700円だった。部屋に戻って求人誌を開くと、東京の平均時給の高さに驚いた。「搬入・現場スタッフ募集」と書かれた記事が目にとまり、具体的には一体どんな作業をするのかはわからなかったけれど、肉体労働なのは確かで、これなら学歴は関係ないだろうと思った。「日払可」というのも僕にとっては魅力で、とにかくすぐにでもお金が欲しかったのでそこに決めて電話をすると面接に呼ばれた。池袋にある事務所での面接で、体力に自信はあるかと聞かれ、「ない」と言えば落とされるだろうと思った僕は「あります」と強く答えた。その一言で翌日から毎日工事現場に出ることになった。



肩に鉄筋を担いで運ぶというただそれだけの単純明快な仕事だったが、鉄筋一本の重さは相当なもので、しばらく続けていると肩から血が出て白いTシャツの肩口は真っ赤になった。それを見た先輩が、ゴム付きの軍手の片方を僕に向かって放り投げ、それを肩にかまして鉄筋を担ぐといいと教えてくれた。「ゴムの部分を上にするんだ。そうすれば滑らないし痛くない」と教えてくれた。その現場のアルバイトは僕を含めて三人いるようで、一人は元プロボクサーで、もう一人はギタリストで、二人とも僕より年上だった。僕が一本担ぐだけでも顔をしかめてしまうような重くて固い鉄筋を、他の二人は三本同時に担ぎ上げる。元プロボクサーは身体も大きく見るからに力が強そうだったけれど、僕と身長も体重もそうは変わらない、どちらかといえば痩せ形のギタリストが三本担いで足場をヒョイヒョイ渡っていく様は見ていて気持ちがいい程だった。「コツを掴めば簡単だよ。初めは無理せず一本ずつ運んでればいい」とそのギタリストは無表情で言った。


何日かに一度は他のアルバイトも現場に来るが、体力的に厳しい現場だったので、二日と続けてくる人はいなかった。昼飯休憩の時間が終わるといなくなっていることも一度や二度ではなかった。初めの一週間は僕も毎日「今日で終わりにしよう、明日は来ないでおこう」と、独りごちたけれど、生活のことを考えると逃げ出すにも逃げ出せなかった。結局新しく来る人が定着することはなく、必然的に毎日同じ顔で働くことになるので次第に僕らは仲良くなっていった。仕事にも馴れ、一ヶ月程経った頃には鉄筋を三本担いで運ぶことができるようになっていた。初めて現場に来て鉄筋を持ち上げれずにいる人に「コツがあるんですよ」などと涼しい顔で言える程になっていた。


雨が降れば現場は休みになった。雨天で仕事がなくなった日の午前、池袋の事務所まで日当を取りにいった。求人誌には「日払可」とは記載されていたけれど、日当を受け取るためには事務所に十八時までに行かなくてはならず、十七時きっちりに現場が終わることなどまずなく、仕事が終わって着替えたり水を飲んだりしているともうその時点で十八時を過ぎていた。しばらく日当を取りに行ってなかったので数日分たまっているはずだと思い、雨天にも関わらず少し弾んだ気持ちで池袋の事務所へ行った。日当を受け取りサインをすると、年配の事務の人に、「君、これから暇?」と聞かれた。特に予定もなく、雨の中遠出もする気になれず映画でも観に行こうかと考えていたくらいなので「特に用はありません」と答えると、午後から一件現場に行って欲しいと言われた。お金のことを考えると毎日でも現場に出たいくらいだったけれど、現場に必要な安全靴や軍手等を持って来ていなかったのでそのことを告げると、「そんなのは必要ない仕事だから」と言われ、時間と場所が書かれた紙を渡された。日当はいくらかと聞くと、基本的にどの現場でも日当は同じ金額なのだと教えられた。


時間少し前、指定されたビルの前で待っていると大学生風の男がチラチラとこっちを見ながら近づいて来た。二人で作業すると聞かされていたので、どうやら同じアルバイトらしいその男に僕は自分の名前を言い、「よろしくお願いします」と挨拶した。その男は「あ、どうも」とだけ答えて耳に詰まったイヤホンを外そうともしなかった。そのぞんざいな挨拶に少し苛立ち、「名前くらい言えや」と聞こえない程度に呟いた。
指定時間を少し過ぎた頃、スーツを着た男が来てビルのワンフロアに案内された。どこかの会社の事務所が入ってたフロアのようで、もう引っ越した後で机ひとつなく、ガランとしていた。ホウキとチリトリを渡され、ひたすら床を掃くだけの楽な仕事だった。こんなことで現場作業と同じ日当がもらえるのかと思うと嬉しくなった。



スーツの男は「適当に休憩とっていいから。十七時前には戻ってきます」と言い残して出て行った。もう一人のアルバイトと話しながら床を掃いた。話してみるとやはりそいつは大学生で僕と同い年だった。さらに、学部は違えど僕が受験して落ちた大学の生徒だった。
携帯代が三万超えて親に怒られただとか、大学のサークルの女の子がどうだとか、全く会話が合わなかった。
僕が写真をするために東京に出てきたことを言うと、「カメラマンだとモテるでしょ」と言うので、「俺の写真はそんなんちゃうねん」と答えたものの、自分の写真とはどんなものかなんて答えはまだ持ち合わせていなかった。



聞けばこの大学生は面接で「体力は自信がありません」と答えたらしい。なのでこの現場のような軽作業の仕事に回されているらしく、一度風俗店の店内清掃にも行ったという。「女の子が普通に裸で歩いてたよ」と賎しい顔をして笑った。僕が肩から血を出して鉄筋運んでいる時、こいつはおっぱい見ながら窓拭きをして、その日当が同額だと考えると頭に鉄筋をぶつけてやりたくなった。「一本も担がれへんくせに」と心の中で悪態をつきながら床を掃いた。


仕事が終わって駅まで一緒に歩き、別れ際、「今度俺のことカッコよく撮ってくれない?」と言われ、携帯番号を交換した。曖昧な返事をしたけれど、東京に来て初めて同世代の友人ができたことは少し嬉しかった。西武池袋線に乗り込み、さっき交換した携帯番号を登録しようと思ったけれど名前を思い出せなかった。そういえば最後まで名前は聞いてなかったのかもしれないなと思い「大学生」と打ち込んだ。


写真家になるのだと言っておきながら、カメラは実家から持ってきた安価そうなコンパクトカメラ一台しか持っていなかった。そのコンパクトカメラを持って歩くのはどうにも気恥ずかしく、僕は早く一眼レフが欲しかった。現場作業中もしんどくなった時には「一眼レフ、一眼レフ」と心中、呪文のように唱えて鉄筋を運んだ。日当も少しは貯まったので買うことを決意し、中野にある中古カメラ屋へ行った。はじめて手にする自分専用のカメラなので新品を手にしたかったけれど、どうにもお金が足りそうになかったので中古で我慢することにした。優しそうな店員をみつけて、何も知識がないことを正直に告げて、「一眼レフをください」と言った。まず写真学生が買うのはこのカメラだと店員が教えてくれ、ニコンのFM2というカメラのブラックボディを買った。レンズは50ミリを一本選んでくれた。フィルムの入れ方すらもわからない無知な僕に、その店員は丁寧に教えてくれた。「まだ生活できないからここでアルバイトしてるけど、実は僕もカメラマンなんです」とその店員は言った。「カメラマンて大変なんやなぁ」と、まるで人事のように思い、カメラを首からさげて帰った。カメラを覗くと、もう一端の写真家になった気分がした。


当初予定していたよりも少し早く進んでいるようで、あと一週間程で現場が終わる。現場が終わったら二人の写真を撮らせてもらおうと決めていた。


続く

阪本勇 Isamu Sakamoto
箕面の山で猿と共に育った彼も今や大都会東京で暮らしております。
自称織田裕二。高校時代はとにかく長距離が速く、声もでかい。
母親はハスキーボイス。
よく一緒にミスドへ行き、箕面の山に写真も撮りに行きました。
自宅の電気・水道・ガスは料金未払いでよく止められていた。
高校卒業後、インドに一人旅。
高校の先輩である矢井田瞳の撮影のアシスタントをした際、「箕面高校」とあだ名をつけてもらった。(友人Y)

<受賞>
2006 第26回 写真ひとつぼ展
2008 塩竈写真フェスティバル フォトグラフィカ賞
2010 作村裕介のうっ~ん!モーレツッ!! 月刊ブログ大賞

<個展>
2010 『大・阪本勇写真展』/海岸通ギャラリー・CASO(大阪)
   『昼光ジャズ』/アートセンター・オン・ゴーイング(東京、吉祥寺)
2011 『べっぴんさん、べっぴんさん。一人とばしてべっぴんさん。』/道草(東京、渋谷)
2012 『昼光ジャズ/特装版』/アートセンター・オン・ゴーイング(東京、吉祥寺)
2013 『ちぎる、はる、はる』/art space isara(東京、恵比寿)