善と悪 二通目 三野新→秦雅則 (1月26日)





秦さま


お返事大変遅くなってしまい、さらには年を跨いでしまって、なおさら申し訳ありません。お元気でしょうか?一番最初のお手紙にも関わらず、写真にまつわる極めて重要なお話が沢山散りばめられておりまして、とっても充実して物思いに耽る幸福を長く噛み締めておりました。そして、僕もこの最初のお手紙に関して、自分にとって大事な写真のお話を秦さんに投げかけて見たいと考えています。それこそ、もう豪速球のごとく。
今回のタイトルである「A letter from 善と悪」ですが、元となっているのは、二項対立の概念です。前提として「両義性」という概念をどうするか、ということが考えられます。「両義性」を日本に輸入して来た人として山口昌夫が有名ですが、いまとなっては極めて一般的な概念とも言えるものになっています。その概念とは、ざっくり説明すると、生と死はコインの裏表である、とか、内と外とはじつは繋がっているとか、なにか二つの相反する物事を原理的に、根源的に考えていくその先に、両方兼ね備えた物事が見えてくる、という概念ですね。
今回の往復書簡においてまず始めに重要なことは、このような「両義性」を忘れてみる、という身振りを選択することだと考えています。両義性なんてなかった、という身振りによって書かれるべきだということです。そして、ふと書き進めるうちに、自分はそのような身振りこそ写真行為そのものであるようだと思い至りました。このことを説明するためにも、写真についてすこし考えてみてください。カメラの目の前の風景や被写体をシャッターを切ることで、写真はイメージに結びつきます。この写真行為は、撮るか撮らないか、という選択の中から「撮る」を選び取ったからこそ結びついたイメージに他なりません。そして、写真においては、その選択に時間が介入しません。例えば映像であれば、一定の時間を切り取ることが出来ますが、写真においては、どの時間に、どのタイミングでシャッターを切るか、ということさえも捨象した結果としてしか、イメージは生まれないのです。つまり、写真行為とは、いま、ここで、目の前を、撮るか、撮らないか、によって写真イメージを所有するかどうかを決定しなければならない身体行為である言えます。これは、主観的な決定として、両義性という概念を捨てきらなければ決して、写真にはなり得ない、ということの証左であると言えるはずです。
ですから、今から僕の身振りは、いかに写真的現象を、「善か悪か」という二元論的に決定していくことに焦点を当てていきます。それこそが、きっとこれからの秦さんとの往復書簡における、写真行為であると考えているのです。
少々前置きが長くなってしまいましたね。 さて、ここで改めて、秦さんの今回のお手紙で考えていらっしゃる論点を簡潔に記してみます。写真とはなにかを考える際に原点となっているものが「雪」である。そして、「不可視のものを可視化すること」と「記憶というもの」のどちらが一体写真なのだろうか、ということ。もしくは、そのどちらも当てはまらない「何か足りないピース」(それは、雪として物質化する過程であったり、多様に選択肢がある点であったり・・・)が影響をしているのではないか、ということもお書きになっているようです。
「雪」について考えていった先に、「可視化」、「記憶」「足りないピース」の問題が出てきていると考えます。となると、まずは「雪」について、徹底的に考えてみる必要がありそうです。
僕が「雪」について考えていることは、実は秦さんの考えとあらゆる点で共振します。はっきり言って、自分のことを言っているのではないか、と思えるほどです。秦さんの手紙の中には、個人的なことを他人に伝えることに対してとってもポジティブに考えていらっしゃいますが、僕としてもその意見に大賛成と言わざるを得ない。むしろ、そういう部分に写真の本質が隠されているのかもしれない、という考えさえ浮かんでいる始末です。秦さんが述べているように、バルトの『明るい部屋』のみならず、スーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』や、ジャン・ボードリヤールの『消滅の技法』、ジャック・デリダの『留まれアテネ』『視線の権利』などなど、数々の写真論の古典に置いて、全てと言っていいほど、それぞれの思想家が写真を語る際、個人的な写真経験から論点はスタートしています。ですので、もう、なにも語ることはない、と言ってしまえばその通りなのですが、この往復書簡の論点は恐らくお互い、作家として、個人的なことを契機に、いかに「写真的現象」によって現在の写真表現の奥行きを広げていけるか、ということがネックになってくるはず。
少し脱線してしまいましたが、「雪」を心象的風景と名付けるならば、その「雪」を具体的に、そして目に見える形にして、他者の心象的風景に接続することが写真家の役割だと言えますね。そうすると、ここでの「善と悪」は、「善い雪と悪い雪」が存在することになり、そのような「善と悪」は、写真の「善と悪」にも繋がってくる。
つまり、この世には、善の写真と悪の写真が存在する。
こう書くと、何か戦隊特撮ものや、怪獣ものなんかを想像してしまいますね、悪の写真を打ち倒すべく、善の写真が立ち向かう、みたいな。
僕が念を押したいのは、個人的な経験や、心象的な風景から始めること自体は、そもそも「善と悪」という概念に囚われるのではなく、それら写真が想起する風景自体が「善か悪か」と考えることが妥当なのではないか、という点です。
そして、往々にして、その本人たちは、自分たちが持つ「雪」のことを「善」だと確信している。そうでないと、写真行為によって、作品として発表できるはずはありませんから。そして、問題は、そのような「善」を相対化していった先に、「悪」が生まれるのではないか、と考えます。つまり、自分の「雪」を、他者の心象に降らせ、積もらせることを目標にしている写真たちは、その雪の美しさ、物質性、心象風景としての素晴らしさなんかを見て、これは「善」だ、と考える。
と、そう考えて、僕自身を省みてしまいます。写真を見る、撮る行為自体において、そのような「善と悪」が逃れられないということになってしまうと、写真家としての自分は、結局いかに「善」としての写真を撮り、見るべきか、ということが問題になります。
ただ、僕自身、一度も写真に対して「善」か「悪」かで考えたことはありません。
でも、これは「良い」か「良くない」かではなく、一方を選べば、一方は「悪」となってしまうのです。これは、本当に恐ろしいことです。「善」を選べば選ぶだけ、その同等の「悪」が生み出されてしまうわけですから。では、いったいどうすれば「悪」を選び取らずに済むかを考えてみます。
ここで、僕が最初の方で述べた「二項対立」が写真的現象であると述べたことを、再度呼び出してみます。写真でできることはなにか?写真にしか出来ないことはなにか?を突き詰めたとき、僕にとって写真にしか出来ないこととは、全く異なる場所、時間、モノを一見のもと、まさに一目で、比較できる、ということです。これは、どんな視覚芸術(映画、映像、舞台芸術など)においても出来ないことです。例を挙げてみましょう。例えば、あなたはいまここから、100km離れた場所に向かい、それぞれの場所や時間、見えているモノを比較したいと考える。そこで、カメラを持ち映像を撮ったとして、100kmの道程を4時間、5時間の長さの映像として人に見せることになるとします。でも、映像では、カメラを撮った人の道程の時間や風景を追体験することはできますが、いまここと100km先の場所を比較することは困難です。ですが、写真においては、まさに一見のもとに、いまこの場所と、100km先の場所がたった二枚の写真によって明らかになるはずです。
比較すること、と僕は言いました。「善」を選び取ろうとする写真家は、この比較することをいつも作品化する前に捨ててしまいます。これは「善」だ、でもこれは「悪」だから捨てよう、という風に。僕は、いかに「悪」を選び取らずに済むか、を考えましたが、はっきり言ってそれは無理です。「善」を選び取れば選び取るほど「悪」は栄え、増え続けるのです。でも、写真には、そんな「善と悪」を比較する力があるはずです。写真においては「善と悪」を選び取るのではないのです、それは比較されるべきなのです。そして、作品は、「善と悪」そのものを俎上にのせた形で、受け手に提示されるべきなのではないかと考えています。



あれよあれよという間に、秦さんのおっしゃる議論に乗っかって好き勝手に考えてしまいました。写真の「善と悪」について、もしかすると秦さんなりに考えていたことがあったかもしれませんね。僕は今述べたことは、実はとても手探りな思考であり、抽象的なものでしかありません。
改めて、秦さんは、写真の「善と悪」について具体的になにを考えていらっしゃいますか?雪の議論から、もう少し引っ張って考えていきたいような気もしています。「可視化」「記憶」については、ちょっと書ききれませんでした。ごめんなさい。「雪」についてのお話の続きなどもいかがでしょうか?とりあえずの僕なりの途中報告も兼ねて、まず第一通目をお返し致します。以上の話を受けてどのように考えて頂けるのか、お聞かせ願えれば幸いです。
不躾な末尾となってしまったことをお詫びすると同時に、お返事お待ちしております。



ではでは、また。


三野 新