阪本勇「猿と天竺」①





序章




春から始まるであろう新しい何かに僕らは全身を興奮させ自転車を漕いでいた。さっきまで飲んでいたお酒の酔いも手伝ってみんなが上機嫌で冗談を言い合ったり、夜道を蛇行してはケタケタと笑い合った。僕らは十五才だった。居酒屋などに入れるわけもなく、酒屋で買ったお酒を近所の公園で飲んだ。中学校を卒業したばかりで、春にはそれぞれが合格した高校の入学式を控えていた。今自分はどこにも所属していないという宙ぶらりんの感覚があった。その宙ぶらりんの感覚もまた、僕らの全身をふわふわと上気させている要因のひとつのようであった。
通りを曲がるとバイクや改造車がエンジンを吹かす音が聞こえてきた。閉館した図書館の前の広場では暴走族の集会みたいなものが開かれていた。週末の夜に暴走族が図書館に集まるのはそこらへんでは周知のことだったので特に驚くことはなかったが、やはり僕らは緊張しながらただただ黙ってその前を自転車で通り過ぎた。僕らは車の免許どころかバイクの免許すらまだ所得できない年齢で、素行が悪かったわけではなく、かといって真面目でもなく、全てにおいて中途半端で平穏無事な中学生活を送った僕は、その光景をどこか遠い景色を見るかのように眺めて通り過ぎた。通り過ぎて程なく、まだ体中の緊張を解きれていない時、後方から僕らを呼び止める声がした。
「おい、そこのガキ四人、待て」
自転車をとめ、声の方向を振り返ると暴走族の集団から一人、黒いパーカーを着た男が立ち上がり僕らに近づいてきた。
「右から二番目。お前何メンチ切っとんねん」
ゆうじ、亮ちゃん、僕、春彦と並んで走っていて、右から二番目にいたのは亮ちゃんだった。亮ちゃんは視力が悪くて遠くを見る時に目を細めるクセがあり、上級生に注意されたこともあった。そんな亮ちゃんが右から二番目だったので、
「あぁ、亮ちゃんなにしてるねん」
と思った。黒いパーカーの男が立ち上がりこっちに向かって歩き出すと、バイクに股がっていた人も、改造車を吹かしたり地面に座っていた人もみな、続いてぞろぞろと僕らの方へ歩いてきた。全員で三十人はいるようだった。気がつくと黒いパーカーの男はすぐ目の前まで来ており、遠くで見ている時はわからなかったが、恐怖心も手伝ってか自分よりもずっと大きく見えた。ゆっくりと追いついてきた他の三十人は僕ら四人を囲み始め、その動きは随分と馴れたように思えた。とうとう僕らを囲む輪が閉じて全身を硬直させたその瞬間、僕の顔面に熱い衝撃が走った。黒いパーカーに殴られたんだとわかった時、そのパンチが合図だったかの様に僕は数人に囲まれ、脇腹や顔面を何度も何度も蹴られた。突然のことにただひたすら僕は身を固くし、抵抗すること無く全身で受け、それらが過ぎ去るのを待ってから恐る恐るゆっくりと顔を上げた。亮ちゃんや他の二人はただただ青い顔で僕を見ていた。よくよく考えてみれば、僕らから見た右から二番目は亮ちゃんだったが、向こうから見た右から二番目は僕だったのだ。
「お前ら何中や?」
中学校は既に卒業したけれど、まだ高校に入学もしておらず、「今、自分は一体何者なんだろうか」という気持ちがあり、なんと答えるべきかわからず黙っていたら、
「六中か?」
と黒いパーカーが続けたので、それを受けて僕は、
「中学生ちゃう、僕らみんな春から高校や」
と答えた。今度はハッキリと黒いパーカーが僕を殴る瞬間が見えた。再び顔面に熱い衝撃が走り、僕は顔を押さえて身構えたが、他からの蹴りはもうとんでこなかった。
「高校生です、やろ」
と言われ、その一発で気が済んだのか、パーカーは振り返って図書館方向へ戻り出した。すると僕らを囲んでいた輪は解散し、ぞろぞろと黒パーカーについていった。バラバラになった輪の中から一人の男が静かに僕に寄って来て、
「大丈夫か?気ぃつけて帰りや」
と声をかけ、優しく肩をたたいた。どこかで見覚えがある顔だったけれど、どこで見たのか全く思い出せなかった。再び排気音が夜に響き出すと、僕らは無言のまま自転車を漕ぎ出した。ビビっているように思われるのが嫌でわざとゆっくりとペダルを漕いだ。この期に及んでまだプライドを保とうとしている自分がなんだか可笑しかった。一番端のゆうじだけが何度も何度も振り返り、小刻みに震えているようだった。左目の瞼の上が切れてそこから血が流れていたが、アドレナリンが出ているせいか、痛みは全くなかった。黒いパーカーがはめていた指輪で切れたんだろうと思った。不思議と恐怖心はなく、カッカと体中が熱く全身で興奮していた。


ゆうじはそのままいそいそと自分の家に帰って行き、僕ら三人はそのまま亮ちゃんの家に行った。亮ちゃんの父親は何年か前に亡くなっていて、兄ちゃんは家を出て一人暮らしをしていたので亮ちゃんは母親と二人で暮らしていた。亮ちゃんの母親はよくそこに集まる僕らをいつも歓迎してくれて、その日も日付が変わる頃だというのに嫌な顔ひとつせず迎え入れてくれた。僕の顔面を見て、
「どうしたん!」
と驚いて救急箱を持ってきてくれた。僕が顔中に消毒液を塗られている間、春彦が事の顛末を説明した。
「ひどいなぁ。おばちゃんちょっと怒ってきたろか!」
その勢いは冗談とも思えず、亮ちゃんが、
「もうええって」
と少し怒気を含んだ声で止めた。春彦はそのやり取りを聞いて笑っていた。亮ちゃんが僕を見て、
「お前はいつも何か見るとき、無遠慮にジッっと見過ぎやねん。そら絡まれてもしゃーないわ」
と言い、春彦も頷いて同意した。全く気づいてなかった自分の癖を指摘され、そうだったのかと少し困惑した。
「大きい絆創膏ないわー」
と言いながら、左瞼に小さな絆創膏を何枚も貼ってくれた。なかなか血が止まらないのはさっきまで飲んでいたアルコールが血流を速くしているのだなと思った。亮ちゃんの母親は、未成年なのにお酒を飲んでいた僕らを咎めることはなかった。僕は亮ちゃんと母親の親子漫才のようなやり取りを聞きながら、さっき「大丈夫か」と肩を叩いてくれた人物の顔を思い出していた。もしかしたら三歳年上の兄の友人だったかもしれないなと思ったが、みんなには言わなかった。さっき自分が殴られたという事実が非現実のようでならなかったが、絆創膏の上から傷口を押さえてみるとやはり鈍い痛みが走った。今までがそうであったように、きっと自分は大きな波の立たない凪のような人生を送るものだと思い込んでいた。「暴走族に囲まれ殴られる」というのはあの時の自分にとってはとても大きな波であった。「僕の人生にもこんな出来事がおこることあるんやなぁ」と驚いていたが、なんだかそれは少し嬉しくもあった。


僕は成績が良かったわけでも悪かったわけでもなく、運動が良く出来たわけでも出来なかったわけでもない。目立っていたわけでもなく、大人しかったわけでもない。何にしても全てがそんな調子で、顔も大して男前でもなく、不細工と言われる程でもなかった。春から入る高校に至ってもそうで、難関校でも落ちこぼれが集まるようなワルの吹き溜まりでもない至極一般的な公立高校であった。
卒業すればそのまま中小企業に就職するか中ランク程度の大学に進学し、三十歳手前くらいで美人ではないが気立てのいい子と結婚し、程なくして子供が出来、車はカローラを買い、四十歳になるのを期に三十年ローンでマイホームを買う。全てが予定調和内の平凡な人生で、平和的に言えば何一つ大きなトラブルに出くわすことのない人生を送るものだと勝手に思い込んでいた。


人はくしゃみ一つ程度でも人生の方向が変わることがある。
僕の兄が生まれた時代はまだ、出産時に採血をして血液型を調べるようなことはなかったようで、兄の正確な血液型は十六歳になるまでわからなかった。几帳面できれい好きで、自分が用を足した後は便所を掃除して出るような兄だったので、僕は小便を散らしてよく怒られた。そんな性格からするときっとA型に違いないと両親も兄自身でさえも信じて疑わなかった。ところがある日、兄がバイクの免許をとりに教習所へ行った時、そこへ来ていた日本赤十字社の呼びかけで献血をし、実はO型だったということが判明した。その結果に誰もが驚いたが、一番驚いたのは本人のようで、その日を境に兄の性格は変わっていった。寝巻きに着替え歯磨きをして布団に入らなければ絶対に寝つけなかった兄が、学生服のまま居間で熟睡してるのを目にした時は驚いた。Tシャツを裏返しのまま着たり、大便を流し忘れたり、日に日にズボラで適当な性格に変わっていった。兄本人の言葉を借りれば、O型とわかって「なんや、テキトーでええんや」と思って気が楽になったらしい。
パーカーの男に殴られたことで、僕の人生の軸が少しずれたような気がした。ずれた角度は少しでも、日が経てば経つ程その角度は利いてくるもので、なにか開き直った考えをするようになったというか、今までよりも少し大胆に物事をとらえるようになっていった。今考えれば馬鹿馬鹿しいけれど、あの夜殴られたことで自分の中に変化が生まれたのは確かだった。兄にしても僕にしても、それが十五、十六という一番多感で、一番揺れやすい時期だったというのもあるのかもしれない。


高校入学を機に、僕は様々なことに興味を持ち、またそれらに積極的に踏み込んでいった。
パンクロックを聴けばロックスターに憧れ、小説を読んでは一端の文士気取りで、映画を観た日には僕はリバー・フェニックスになるのだと、その日その日で目指すべき未来が変わった。興味を持って触れる音楽や小説、映画等には東京の地名が頻出した。いつしか東京は僕の憧れの地となり、卒業したら上京することを密かに心に決めていた。平凡な人生を歩むのだとあれほど思っていたのに、卒業する頃には、どうせ俺は普通の人生を歩めないのだからという勘違いにも近い思い込みがあった。それでいい、それがいいとも思っていた。


写真を始めるきっかけは、高校の美術教師の横山だった。
横山は二十代半ばの男で、芸術家特有の少し変わったところがあった。服装には全く無頓着で、いつも老人が着るような地味な服を着ていた。授業にそれほど熱心ではなかったが、他の年配の先生から時折感じる疲労感みたいなものはなかった。美術の時間は友人と喋りながら受けれるので楽しかったし、他の先生と比べて年齢も近い横山に僕は好意的だった。
「希望」をテーマに絵を描く授業で、他の生徒は絵の具で何か思い思いのものを描き始めたが、画材道具一式持ってくるのを忘れた僕は、友人にもらったエロ本を鞄から取り出し、おっぱいだけを千切っては画用紙に貼りたくった。それをみて横山は「最高に素晴らしい」と言った。
「先生おっぱい好きなん?おっぱい星人なん?」
と僕が笑うと、
「そういうわけじゃない」と横山は真剣な顔をして答えた。


横山は非常勤講師だったので、授業の無い曜日は学校に来ない。
「他の日何やってるん?」
と聞けば、
「俺は作家やから、作品を作ってる」
と言った。おっぱいのちぎり絵を「最高」だという人が作る作品がどんなものなのか全く想像つかなかったが、作家という言葉の響きが妙にかっこいいものとして心に残った。
ある日の授業終わりに横山が僕を手招きし、
「暇やったらこれ行ってみ」
と言ってある展覧会の入場券をくれた。それは心斎橋の百貨店で開催されているマン・レイという人の写真展の入場券だった。なぜその券を僕にだけくれたのかはわからなかったし、今まで写真展というものに行ったこともなく、マン・レイなんて人も知らなかったが、その入場券に記載された「招待券(非売品)」という文字になにか特別感を覚え、その日の放課後一人で見に行った。


写真展だったので、マン・レイという人は写真家なのかと思って見に行ったのだけれど、入ってすぐのプロフィールや年表を読むとアメリカ出身の画家だと書いてあった。元々は自分の絵を写すために写真を始めたのだと書いてあった。展覧会自体はなにか特別に心に残ったわけではなく、アイロンに画鋲を貼った写真や、女の人の背中をバイオリンに見立てたヌード写真が立派な額に入れられて飾られているのを見て、以前自分が撮った箕面の山の猿の写真を思い出し「僕の写真の方がおもろいやんけ」思った。写真は絵を描くより簡単なのかもしれないなという思いが残り、僕の中に「写真家」という選択肢が生まれた。


高校を卒業して僕は東京に出た。
成績が悪かった僕は万が一と思い受けた東京の大学はあっけなく落ちた。なので東京に出る理由として「写真」を挙げた。僕が小学生の時に両親は離婚し、僕は母親と兄と三人で生活してきた。母親が身体を悪くしてからは実質家長的存在である兄に、
「写真家になるために東京に行く」
と言った。
「勝手にせい。仕送りなんかせんぞ。自分のケツは自分で拭けよ」
と言われた。ありがたい言葉だった。
しかしその時点で僕はカメラを一台も持っていなかったし、写真家もマン・レイと加納典明の名前ぐらいしか知らなかった。


両親の離婚以来父親とは離れて暮らしていたが、兄と僕は時々父親と会っていた。会って食事をし、帰りに本を一冊買ってもらえるのが嬉しくてたまらなかった。母親もそれに関しては承知をしているようであったが、やはり一緒に食事に行くことは一度もなかった。
父親に電話をし、東京へ行くことを告げた。上京当日の引っ越しを引き受けてくれた。
父親の車はそれほど大きい車ではなかったが、荷物は本類、雑貨類の段ボールがそれぞれ一箱ずつと、衣類を詰めた段ボール二箱の合計段ボール四箱と、三合炊きの炊飯ジャーと電子レンジの電化製品二つだけだったので十分に余裕があった。免許を持ってなかった僕は助手席に乗り込み、東京までずっと父親が一人で運転した。


炊飯ジャーと電子レンジは先輩にもらった。京都で一人暮らしをしている先輩の家まで友人と一緒に炊飯ジャーをもらいに行った。家に上がらせてもらって話をしていると、その先輩が一人暮らしにおける電子レンジの重要性を力説し出した。「お金がないからいつか買います」と僕が言うと、先輩は少し考えて、
「よっしゃ。俺がとってきたる」
と言った。よく行くパチンコ屋の景品に電子レンジがあったはずだと友人を連れて出て行った。パチンコをしない僕は一人で桂川を散歩して時間を潰した。二十メートルおきくらいに点在するカップルを眺め、「一人暮らしを始めたらすぐに彼女ができるかもしれないな」と根拠のないことを思った。僕はまだ女を知らなかった。
夕方、先輩は見事に電子レンジを担いで帰ってきたので驚いた。「何の機能もついてへんやつやけど」と先輩ははにかみ、横で友人は笑っていた。あたためる機能だけしかついてない安価そうな電子レンジだったけど僕は大喜びした。
実際のところ、先輩はパチンコで勝てなかったらしい。結局先輩は電気屋に入り、なけなしのお金を叩いてその電子レンジを買った。大阪に帰る電車の中で「お前には絶対に言うなって言われたけどな」と前置きし、友人が教えてくれた。「だからそれ、安そうに見えてけっこう高級なレンジやで」と笑った。


住む家はもうあらかじめ決めていた。上京する一週間程前に一度東京へ行き、不動産屋をまわった。
最初に入ったオシャレな雰囲気の不動産屋では「三畳の部屋を見せて下さい」と言った。父親から学生時代は三畳の下宿部屋に住んでいたという話を聞いていたので、三畳なら家賃も安いだろうと思っての言葉だった。
「今時三畳の部屋なんてないよ」
僕を担当したまだ二十代前半ではないかと思われる茶髪でチャラチャラした感じの男が、少し馬鹿にするようにへらへらと言った。
その時はまだ東京言葉のイントネーションに馴れていなかったのでそう感じてしまったのかもしれないが、頭にきた僕は、
「じゃあ結構です」
と言って店を出た。後ろ手にドアを強く閉める瞬間、中からどっと笑い声が漏れた。きっと僕のことを笑っているのだと思い、脇に停めてあった不動産屋の自転車を蹴飛ばした。次に入った不動産では、五十代くらいの少し小太りな男が対応してくれ、最初に名刺を渡された。
「家賃が安い部屋、下から三つ見せて下さい」
と僕が言うと、男性は柔らかく頬笑んで三部屋分の見取り図のコピーを持ってきてくれ、それぞれ家賃は三万、二万、一万五千円だと説明してくれた。
「さん、に、いちじゃなくてごめんね」と優しく笑った。
仕送りも無く一人で生活していくのに家賃は安ければ安い程都合がよかったが、一万五千円の部屋は木造二階建ての二階の部屋で、大家さんが階下に住んでいると聞いて却下した。友達が部屋に遊びに来たら気を使うだろうと思ったし、いつか自分に彼女ができた時にも呼びにくいかもしれないなとも思った。結局家賃二万円のアパートを契約した。練馬区にある木造二階建てのアパートで、四畳半、風呂無し・共同便所の部屋だった。共同玄関で靴を脱ぎ、板張りの廊下を挟んで両側に部屋が三部屋ずつあるとても古いアパートだった。各部屋の出入り口には「戸」と呼ぶよりも「木製の板」と呼ぶ方がふさわしいような気がする引き戸があり、その鍵は簡易的で頼りなく、蹴れば簡単に壊れそうなものだった。「まぁ、泥棒もこんなアパートになんて入らないだろう」と思って気にはしなかった。それよりも二十三区内に住むことになるというだけで僕は興奮した。


朝大阪を出て、夕方前には練馬のアパートに着いた。とにかく部屋中埃だらけだったので先ずは掃除をすることにした。
畳を一拭きするだけで卸したての雑巾は真っ黒になった。拭いてはバケツで雑巾を濯ぎ、濯いでは拭く。切りがないんじゃないかと思うくらいに部屋中埃だらけで、僕が雑巾がけをしている間中、父親は何も言わずにビデオカメラを回していた。畳に蝋がこびりついていた箇所があり、親父はそれを画面いっぱいのアップで映し、
「前住んでた奴が電気停められてたんやなぁ」
と言った。何時間もかけて押し入れまで拭き終わり、ようやく寝転べるくらいまでになった時にはもう0時を過ぎていた。その時になって初めて布団もない事に気づいた。
「布団屋の末裔が何しとんねん」
親父が笑った。江戸時代、先祖は寝具屋を営んでいたことをそのとき初めて父親から聞いた。父親と僕はバスタオルを毛布がわりにして並んで畳の上に寝転んだ。四畳半と言えども、物が何もない部屋はとても広く感じた。父親と一緒に寝るのは何年ぶりだろうかと考えた。


まだ僕が小学生の時、どこかの河原で父親と兄と僕、三人川の字になって寝たことがあった。夜、車で河原に着くと父親はおもむろにトランクから三人分の寝袋を取り出した。夏の終わりと言えど夜は少し肌寒かった。兄はまだ自分がA型だと思い込んでいて繊細な性格の時だったので、虫の気配を近くに感じる度に顔をしかめ、ぶつくさと何か文句を言っているようだった。僕は外で寝ることに全く抵抗はなかったが、車があるのになぜ車の中で寝ないのだろうかと不思議に思った。


裸電球を消して、そんなことを考えているうちに親父の鼾が聞こえてきた。こんな機会なので二人で何か深い話でもするんだろうと勝手に思い込んでいた僕は少し意気消沈したが、そんなことを考えるなんて僕も少しセンチメンタルな気分になっているのかもしれないなと思った。知らずのうちに新生活への緊張感で疲れがたまっていたのか、僕もいつのまにか眠りに落ちていた。


朝、ガタガタと引き戸の開く音で目が覚めた。父親はコンビニエンスストアのビニール袋を手に提げて帰ってきた。朝食を買いに行っていたらしく、サンドウィッチをいくつかと、紙コップ三杯入りのインスタントコーヒーが入っていた。
ガスコンロは備え付けられてなく、それどころかガスもまだ開通していなかった。
「お湯沸かされへんがな」
と僕は心の中でつぶやいた。親父は炊飯ジャーのお釜に水を入れ、蓋を閉めて炊飯のスイッチを押した。三分程して、くつくつという音がし始めて蒸気口からほんのりと湯気が立ち出した。
「ああ、なるほど」と思った。学生時代三畳間で一人暮らしをしていた親父の経験値を感じた。さらに五分程するとくつくつがぐつぐつにかわり、蒸気口から出る湯気も吹き出すように激しくなった。親父が蓋を開けて、昨日掃除に使って干してあった雑巾で熱くなったお釜のへりをつかみ、インスタントコーヒーが入った紙コップにお湯を注いだ。サンドウィッチを食べ終えると、父親は空いた紙コップを灰皿代わりにしてタバコを立て続けに二本吸った。


「ほなそろそろ行くわ」
父親はおもむろに立ち上がり、サイドバックから茶封筒を取り出して僕に渡した。
「現金やな」と気づいたが、その場では確認しなかった。
「まぁ、がんばれや」
と言って親父は車に乗り込み大阪へ帰って行った。親父を見送ったあと、茶封筒の中身を確認すると三万円が入っていた。何に使おうかと考えたが、部屋に戻って茶封筒に入れたまま広辞苑に挟んでおいた。一杯だけ残っていたコーヒーを飲もうと思い、父親の真似をして炊飯ジャーでお湯を沸かした。ほんのり湯気が上がり出した蒸気口を見ながら、不安と期待が入り交じったこれからのことを考えた。まだ何一つ決まっていないということが希望であり、同時にそれが大きな不安でもあった。


家賃は滞納せず払っていけるんやろうか。いつになったら僕は女を知れるんやろうか。それ以前に恋人はできるんやろうか。友達は出来るか。郷愁にかられ涙しないか。家族に何かあった時僕はどうすればいいのか。果たして僕は成功できるんやろうか。そもそも成功とは一体どんな状態のことなんだろうか。


湯気が勢いよく吹き出していた。その湯気の向こうに僕は未来の光を見ようとした。


続く

阪本勇 Isamu Sakamoto
箕面の山で猿と共に育った彼も今や大都会東京で暮らしております。
自称織田裕二。高校時代はとにかく長距離が速く、声もでかい。
母親はハスキーボイス。
よく一緒にミスドへ行き、箕面の山に写真も撮りに行きました。
自宅の電気・水道・ガスは料金未払いでよく止められていた。
高校卒業後、インドに一人旅。
高校の先輩である矢井田瞳の撮影のアシスタントをした際、「箕面高校」とあだ名をつけてもらった。(友人Y)

<受賞>
2006 第26回 写真ひとつぼ展
2008 塩竈写真フェスティバル フォトグラフィカ賞
2010 作村裕介のうっ~ん!モーレツッ!! 月刊ブログ大賞

<個展>
2010 『大・阪本勇写真展』/海岸通ギャラリー・CASO(大阪)
   『昼光ジャズ』/アートセンター・オン・ゴーイング(東京、吉祥寺)
2011 『べっぴんさん、べっぴんさん。一人とばしてべっぴんさん。』/道草(東京、渋谷)
2012 『昼光ジャズ/特装版』/アートセンター・オン・ゴーイング(東京、吉祥寺)
2013 『ちぎる、はる、はる』/art space isara(東京、恵比寿)