善と悪 一通目 秦雅則→三野新 (1月1日)





一通目


先日はどうも。急なお誘いにも関わらず、長い時間一緒に過ごすことが出来て楽しかったです。ただ、お互いに酒飲みで、ましてや長い時間飲んでいると、財布の中身は一気に吹っ飛んでいくものですね。まあ、その分の価値はあったと思っていますし、企画についても賛同してもらえ、まして新しいアイデアまで貰えて嬉しかったです。それに丁度、あの日は雪が降るかもしれないっていうくらいに寒い日で、この企画のことを考えるのにも良かったのかもしれません。それに、明け方には少し雪も降っていたみたいですね?勿論、積もるようなものではなかったので、朝には何事もなかったかのような雰囲気でしたけれど。


何故、僕がこの「A LETTER FROM 善と悪」というタイトルで、写真や写真的現象についての往復書簡という企画の中で、今、雪の話をしているのか。三野君もそろそろ不思議に思っていることだと思います。もしかしたら、クリスマスが近いのでただの時事ネタや季節の挨拶のようなものかと考えているかもしれませんが、それは間違いです。僕は雪に対してただらぬ想い入れを持って、今、この時にも雪の話をしているのです。
もしかしたら、僕と三野君は出身地が同郷ということで、直ぐに理解してもらえる話なのかもしれませんが、福岡という土地にはあまり雪が降り積もるということがありません。小学生の時に、初めてきちんと雪が積もった時には、担任の先生が授業を中断し雪合戦をしようと言ってグラウンドに出ていったことを覚えています。あと、これは僕の話ではないのですが、実家の父の部屋には兄が子供の頃に大きな雪だるまを作って、その横で満面の笑みを浮かべている写真が飾ってあります。その頃の僕はまだ一緒に雪だるま作りを手伝うことは出来ないくらいに小さかったようですが、その写真を見る度に羨ましさと誇らしさのようなものを感じていたことを覚えています。そのように、僕にとって雪というものは喜びに直結している部分があるのだと思います。そして、その雪に対する喜びの原体験が、僕の頭の中や写真として静止画像として残っており、雪を写真的だと感じるようになってしまったのかもしれません。ただし、この話を進めていく中で、大前提に話をしておかないといけないと思うことは、雪の画像であるとか、雪の降っている場所の画像を写真的だと言っているわけではないということです。事実、僕は雪の日に写真を撮ったことはあっても作品化をしたことはありません。むしろ、晴れの日、曇りの日、雨の日のほうが画像として写真にしやすいとすら思っています。なので、理解してもらいたいのは、今話していることは画像として写真的だということではなく、現象として、心象としてという意味で写真的だということです。
まあ、なんだかんだと言葉を並べてみても、僕がそう思ってしまうことを他人に対して同等に理解をしてほしいというのはおこがましい考えだとは思っています。ただ、ロラン・バルトの「明るい部屋」で語られている温室の母のように、個人的な写真に対する捉え方や考え方を共有していくということには面白い発見が沢山隠されているように思います。なので、もうしばらくは、この未だに明瞭にならない霧がかった話に付き合ってもらえればと思います。
引き続けて今、霧という言葉を書き記しましたが、霧も雪と同じようにこの目で直接見ることが出来るということをもって、雪と似ている存在なのかもしれません。空気は基本的に見ることが出来ないが、空気の中の水蒸気が凝結して小さな水粒が空中に浮いている状態となると、可視出来る霧となります。それでは、雪というものがどういうものかと言うと、霧と同じような状態が空中で起こっているものを雲と呼び。その雲の中の水粒や氷粒が湿度の関係等によりぶつかりあい大きくなった場合に地上に降るものが雨。そして、気温の違いによって結晶のまま落ちてくるものがあり、それを雪と呼びます。詳しく言うと、霧にも雨にも雪にも呼び方が沢山あるように、細かく分類分けされるようですが、ここでは普段は透明で見えない水蒸気が、可視できる状態に視覚化されることがあるということ。それと、雪というものは水蒸気が水粒となり、それが結晶化し地上に落ちてきているものだという部分について理解してもらえればと思います。


そして、今まで話を進めてきたところで自分の中で納得する部分と、全く納得出来ない部分が出てきているのを感じています。僕としては、本来、目に見えないものが目に見える状態になるという現象が写真的であると考えているのかと思っていたのですが…本当にそうなのでしょうか。今の段階では、記憶というものの影響の方が大きいのか、雪が結晶であるということも影響しているのか、雪という天気の他に天気が幾つもあるということが一番大きく影響しているのか…ちょっと、今すぐに自分の中で結論を急ぐという気にもなれませんし、何か足りないピースがあるようにも感じています。そして、その自分のソレがアレよりも写真的であるという考え方自体が、善であるのか悪であるのか…僕にはもう 分からなくなっているようです。


三野君はどう思うかな?三野君がどういうところに引っかかるのか、考えを聞かせてもらえればと思います。それでは、一通目。最後は少し投げやりな文章となってしまいましたが、これから出掛けなければいけないのでこのまま送らせてもらいますね。返事、待っています。


二〇一三年十二月 秦雅則