鈴木諒一「水辺のそばで眠ること」 ⑤





5.




−窓−




 火星人は結局1時間が経過しても舞台にあらわれなかった。開演の合図は沈黙のなかに消え、観客は席をはずした。彼はわたしの目覚めを少しばかり健やかなものに変えて、自らはまた寝入ってしまったに違いない。洗濯物は彼の夢の時間だけ、絶えず固いしわを刻むだろう。今日のような曇りがちの天気ではもはやとりかえしがつかないほどのしわ、砂漠でひねったタオルのようなしわを。ともあれきっとそれを伸ばすことなど、火星の技術力をもってすれば大したことではないのだ。厚い氷の下の清らかな水をあばくようにして、いとも容易くしわは伸ばされていくだろう。代償はちいさい。
 彼は例の舞台からうまい具合に逃げ延びた。とても自然なかたちをもってとてもスムーズに。わたしはそれを幾分か羨ましく思う。薄い壁の向こう側から火星人の寝息が聞こえる気がした。その空耳のリズムにつられるようにしてわたしは目を閉じた。不慣れな早起きのせいか身体が重く、結局目覚めてからずっとパソコンの画面をながめていた。窓をあけようにも手が伸びなかった。トイレにも行ったし、お茶も飲んだ。リップクリームも塗った。それでも窓には手が伸びなかった。そういう窓だった。重たく、遠く、不便で、それでいて触れればなにかが変わる気配がする。仕方なくその気配が消えるまで、わたしは窓をながめていた。パソコンの画面が自動で消えた。玄関の扉は窓よりも近かった。


* * *


 うわさ話の一端が、雨となって降り注ぐ6月のドトールのブレンドは、すこし紫がかった色をしている。この月の魔力をからだのなかに注ぎ込んで、それを甘受してしまう、紫色の無邪気なこども。彼ら彼女らは紫陽花の花の位置を知らない。それでよく食べよく育つ。わたしはミラノサンドを注視して、海老のしなりに葉脈を重ね、外のネオン管に受粉させる。数時間もすれば、花がひらき煌々とかがやくだろう。
 おおきな窓のある2階のカウンターの席からはちょうど同じ高さに駅のホームを見渡すことが出来た。はじめから開くことのない窓の方が面倒が少ない。高架で抜けのいいホームは巨大な鯨の背のようで、その上で電車を待つ人々はどこか勇ましくみえた。電車が入ってくると、切り絵が破けるようにしてその背は空っぽになり、出っ張っているのは椅子とキオスクと立ちそば屋だけになった。
 12分間隔で南を志す駅をとりこんだ路線は、その名前を途中でぶっきらぼうにかえながら、地下鉄へと直結していた。都心の地下をぬけ、丘陵地へと通ずる電車のなかで、人々の多くはこの車両の行く先を思うことはない。あまりにも長く走り続ける。あまりにも多くの町を通り過ぎる。ため息のように駅名がはきすてられていく。その土地にまつわる思い出話のなにがしは、揺れを孕んで加速して、もはやその場所ではない場所で話の頂きに上り詰めるのだ。だから電車のなかには、いつでもすっとんきょうな場所に話の山がつらなって、ときにはそれが原因で電車を遅延させた。そんなとき遅延証明書には、複雑な理由を適当に簡略化するために、たったひとことの魔法の言葉「信号トラブル」とだけ記入された。本当のことを話したい人にだけ、本当のことを話せばいい。あるいは、本当のことを聞いてくれる人にだけ、本当のことを聞いてもらえばいい。駅員と電車はそんな風にものごとを考えているようだった。


 電車が行ってしまったあとの空っぽのホームにふてくされた女性が一人立ち尽くしていた。
 わたしはコーヒーを片手に彼女とともに12分間待った。あと数分もすればホームに人が増え始め、ひとしきりの空虚を味わった女性も、遅れてしまうことの脆さを引き受けはじめる。自分の横や後ろ、時には前に並ぶ人々を先導し、教えを説くのだ。
 「私は12分間ここでこうして待つのです。あなた方と同じ電車に乗り、立ち座りをおなじ空間で分け合うのです。時にはあなたの前の席があき、時には私の前の席があくでしょう。与えられた席に我々は座り、時には他人をひどく妬んだり(自分より後に乗ってきた人に先を越されたりして)、それにつられてどっと疲れを感じたりもするでしょう(この路線はとても長いから)。もちろん、席をゆずり心満たされることもまたあるでしょう。」
 彼女のスピーチは加速していく。話の順番を気に留めている余裕もない。現実にはきっと携帯電話の点滅を追っているだけの女性、そしてわたしのこの荒っぽい決めつけに対抗する術も抗議する当ても、興味もない女性は、しかしながらむしろわたし自身のうちでは他ならぬわたし自身によってそれが出来る。意思とは無関係に、当の本人とはまったく無関係に、名前を変えて加速していくもの。ただそこに、つまりフィクションを生きることの汗臭さに、わたしは「希望」に似たものを願った。そして現実世界の12分間では、コーヒーを飲みきることが出来なかったので、電車に乗り遅れた女性は、結局わたしを置いてけぼりにした。




鈴木諒一 / SUZUKI Ryoichi
1988年静岡県うまれ。
web :http://www.suzukiryoichi.com/