阪本勇「猿と天竺」⑧





第八話




彼女と連絡が取れない日がしばらく続いた。電話やメールをしても返事がなく、しかし特に用件があったわけではなかったし、僕の方もアルバイトや細かい用事等で少し忙しい日が続いていたので大して気にはしていなかった。
数日後、久しぶりに電話に出た彼女の声は、電話口でも暗い表情をしているとわかる程に沈んでいた。もしかしたらまた母親に僕とのことを何か言われたのかと思い、
「元気ないやん。どうしてん?」と聞いても答えない。近々はいつ会えるかと聞いても「わからない」としか答えず、こちらから日にちを指定したら、ようやく大丈夫と答えたので、「その日、うちに泊まりぃや」と提案した。彼女は大学の寮に住んでいたので当日外泊は無理だったが、前日までに届け出を出していれば比較的自由に外泊することができたので、これまでに何度も泊まりには来ていたし、翌日学校がない週末なんかは彼女の方から進んで泊まりに来ることも多かった。アルバイトを終えて夜中に帰ると御飯を作ってくれていて、アルバイト終わりに賄い飯を食べて帰った時でも嬉しくて全部食べた。どんなに満腹で帰っても、不思議と彼女の作ってくれた温かい御飯を目の前にするといくらでも食べれた。そういえば最近会っていなかったし、彼女のお手製の御飯を食べてないなと思い、
「ひさしぶりに御飯作ってくれへん。食べたいわ」と御飯まで懇願した。それは本心だったし、しかしもっと奥底の本音を言えばセックスがしたかった。彼女は「私に泊まる資格なんてないよ」と小さく答えた。意味が分からず「え?」と聞き返したまま黙っていたら、彼女の方も黙ってしまい沈黙が続いた。その数秒の沈黙のうちにありとあらゆる憶測が働き、恐くなって震えがきた。瞬間にして感情が高まった僕は、「お前なにしてん?」とようやくのこと吐き出した声は上ずっていた。彼女は何か言葉にならない悲鳴の様な声を出し、電話を切った。何度かけ直しても出ず、ついには電源を切られてしまい、呼び出しすらできなくなった。その無言の逃避に全てを理解した僕は、今まで覚えたことのない恐怖に全身が震えた。膝がガクガクと震え、自転車のペダルをうまく漕げなかった。彼女は浮気をしていたのだ。



この世の中に浮気ということが存在することはもちろん知っていたし、僕の周りの友人や先輩の中にも公然と浮気をしている輩もいた。しかしそれは自分にとっては全くもって無縁の別世界のことだと思っていたので、それはまるで地球に降って来た隕石が顔面に衝突したかのような衝撃だった。翌日も翌々日も彼女と連絡が取れなかった。ずっと電源を切ったままらしく、呼び出しすらしなかった。メールを打とうが、留守番電話に伝言を吹き込もうが返事は全くなかった。たまさか呼び出しがかかることがあっても、直後、すぐに電源は切られた。とにかく事実を確認したかった。真実がわからない状況では、したくもない想像をしてしまい、その想像に苦しめられた。取り付かれたかのように頭を掻きむしり、頭皮が削れて血が出た。信じたかった。僕も彼女もお互いが初めての相手で、お互いが死ぬまでお互いしか知らずに一生を終えると信じていた。自分の彼女が他の男と寝たのではないかと思うと、もう死んでしまいたくなった。まだわずかに残っている0.000001パーセントの確率にかけたかった。連絡もつかず、真実を知るにはもう彼女の学校に行くしかないと決意した日の朝、アパートの扉をノックする音がして、開けると痩せて骸骨の様な顔をした彼女が立っていた。部屋にあげて畳に座り向かい合うと、彼女は突然嗚咽をあげて泣き出した。「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」と狂ったように泣き叫びながら、畳に爪を立てていた。0.000001パーセントの希望は消えた。


その浮気相手や内容を詳しく聞くことは、自分の心臓に針を立てていくことだった。よせばいいのに、聞くことを止めれなかった。浮気の相手は地元の、子供の頃からお兄ちゃんと慕っていた近所の年上らしく、彼女が家に帰るべく駅前のバスターミナルでバスを待っている時に偶然再会したらしい。男は車で来ていて、「家まで送ってあげるよ」と言い、二人一緒に車に乗り込んだ。車中、お互いの近況報告で久しぶりの緊張がほぐれ、思い出話で盛り上がり、話は次第に趣味の映画の話に移っていった。男が話したサスペンスものの洋画を、彼女が「おもしろそう」と言ったところ、「家にビデオがあるから観に来ないか」と誘われ、てっきり自分の実家からも歩いていける距離にある、幼少時代にも何度も行ったことがあるその男の実家に行くのかと思っていたら、車が着いた先は現在その男が一人暮らしをしているマンションだった。そのマンションの部屋で映画を見た後、二人は行為をした。男は彼女の七歳年上で、つまり僕よりも五歳も上だった。僕はもう無理だと思った。人よりも随分と経験が遅れた僕は、性に関しては強いコンプレックスを抱えていた。年上の経験多き男に抱かれた彼女を、童貞を卒業して一年も経っておらず彼女一人しか経験のない僕が満足させてあげられるわけがないと下衆なことを思った。僕が下手糞なセックスをする度に、彼女は男との良かったセックスを思い出すに違いない。そう考えると気が狂いそうだった。


男には恋人がいるらしく、彼女もつき合っている男性がいると言っていたので、「今日のことは二人の秘密だね」と言ってきたらしい。
「そいつの連絡先とか住所とか全部全部教えて」と僕が言うと、
「どうして?」と怯えた目で彼女が聞いた。
「決まってるやん、殺しに行くねん」と僕が答えると、彼女は再び泣き出し、今後一切連絡を取らない約束するからと言って僕に教えようとはしなかった。今後彼女と付き合いを続けて幸せを感じる自信がなかった。四六時中、夢の中でさえも苦しみ続けたこの地獄のような時間が永久に続くのかと思うと叫び出したかった。しかし別れることも考えられないという矛盾の中で、決め手になったのはコンドームだった。僕は初めて彼女とセックスをしてからというものの、狂った猿かのように会う度に何度も何度も求めて数え切れない程セックスを重ねたけれど、コンドームなしでセックスをしたことはただの一度たりともなかった。
「万が一、子供が出来てたらどうするねん」と僕は彼女を責めた。僕は当然コンドームを装着している前提で話をしていて、性に関する浅い知識の中で、コンドームをつけても避妊率は100パーセントではないと知っていたので、その上での詰問だった。
「外に出してもらったからそれは大丈夫」と彼女が答えた時、僕は怒りのあまり初めて彼女に手をあげた。彼女は男とコンドームをつけずに交わっていた。頬を平手打ちされた彼女は、一瞬ハッっとして「しまった」という苦い表情をした。その表情が何か恐くてたまらないものに思えた。
僕の性器が未だに触れたことのない彼女の中に男は平然と入り込み、直に粘膜にまみれたのだと考えると気が狂いそうだった。0.01ミリだかのその薄いゴムの壁が、僕にとってはとても分厚く高く、自分の精神を保つ最後の壁だった。自分が前に立って守り続けてきた壁をいとも簡単に乗り越え、破壊され、僕は自分の存在を完全に見失った。「お願いやからもう帰ってくれ。ほんで一生俺の前にあらわれんでくれ」と言葉にした時、僕の精神は崩壊した。堰を切ったように嗚咽をあげて泣き出した僕を見て、さっきまでとは打って変わって冷静になった彼女は「別れたくない」の一点張りで部屋から出て行こうとしなかった。もう、とにかく一緒にいたくなかった。彼女は頑として出て行かないので、僕が部屋を飛び出した。財布も携帯電話も置いたままで出たのでどこにも行けなかった。カメラも持たずに出たのは写真を始めてから初めてのことだった。あてもなく何時間も歩き、腹が減っては水道の水をがぶがぶ飲んで、夜は石神井公園のベンチに寝転んだ。彼女の表情が脳裏に焼き付いて離れず、ブルブルと震えた。冬の寒さに震えているのか、得体の知れない恐怖に震えているのかわからなかった。結局、朝まで寝ることができなかった。



翌日の夕方頃、部屋に戻ると畳の上には彼女が作ったのであろう御飯がラップを張られて置かれていて、その前に手紙が添えられていた。ハンバーグも、味噌汁も、ポテトサラダもアパートの共同便所に流した。排水溝が詰まり、和式便器一杯に水が溢れてきたが、すんでのところで止まり、流れていった。手紙も細かく千切って流した。読みたくはなかった。便器のへりに手紙の破片と大量のキャベツの千切りが流れずにはりついて残った。手紙の破片に「愛」という文字が見えた。サンポールをぶちまけ、タワシでこすり落として流した。部屋に戻るとカメラが視界に入り、もしかしたら中のフイルムには彼女が写っているかも知れないと思い、カメラからフィルムを引き出し、ハサミで切り刻んでゴミ箱に捨てた。洗面器に水を張り、コタツの天板の上に置いた。下半身をコタツに突っ込み、手は冷水に浸し続けた。冷たくて震えたが、他に精神を落ち着ける術を知らなかった。


それから約一ヶ月程、頻繁に来る彼女からの電話やメールを無視し続けていた。少しずつその頻度は減っていき、ある時気がつけば電話もメールも一週間以上なかった。なにか気になってしまい、居ても立ってもおられず、女々しくも自分の方から電話をかけてしまった。電話に出た彼女は、不思議そうに「はい」と言い、その口調に、彼女は僕の連絡先を携帯電話のメモリーから消したのだと敏感に悟った。
「新しい彼氏ができたから、もうかけて来ないでほしい」と彼女は淡々と話した。
「彼は最近新聞社に内定を貰った人だからお母さんも喜んでるよ」と乾いた笑いを放ち、言葉が出ない僕になおも畳み掛けるかのように、
「あ、あと私、あんたが初めての人じゃないからね。騙したんじゃないよ、あんたが勝手に思い込んでるみたいでこっちも苦しかったよ」。



光陰矢の如し、矢は的を大きく外れて数年が過ぎた。何の結果も出せず、何者にもなれず、年月だけが無駄に進んでいった。気がつけば写真を撮ることもなくなっていた。