阪本勇「猿と天竺」⑦





第七話




彼女とつき合い出してからは、会う度に「両親に会いたい」と伝えた。真面目につき合っていこうと思っていたので、なるべく早めに挨拶に行きたかった。アルバイト生活である現状で口に出せば笑われるだろうから言わなかったものの、心の中では結婚も考えていた。同世代の友人にも「いつの時代だよ」と笑われたが、付き合うということは、その先には必ず結婚があるべきだという古い考えを持っていた。
しかし、彼女はなぜか曖昧な返事をした。最初は恥ずかしがっているのかと思っていたが、あまりにも進展の兆しが見えないので、何か釈然とせず、ある時、「俺とつき合ってること、両親は知らんの?」と聞くと、それは知っていると言う。知られているのであれば尚更に挨拶を急がねばと思ったが、なおも彼女は曖昧な言葉を繰り返した。彼女の母親は少しヒステリックなところがあると聞いていたので、挨拶が遅れて悪い印象を与えることだけは避けたかった。



しつこい僕に嫌気がさしてか、ため息まじりに彼女は答えた。「お母さんはあんまり良くは思ってないみたい」。僕はまだ会ってもいないのに良く思われていないということに困惑した。僕と彼女とは親子程の年齢差があるわけではないし、離婚歴や、ましてや犯罪歴があるわけではない。嫌われる理由がわからなかった。ある時、ふと、彼女の母親が僕のことを良く思っていないのは、僕が大阪人だからじゃないだろうかという疑念が頭に浮かんだ。
実際に、大阪人というだけでアルバイトの面接に落ちたことがあったし、仕事での嫌がらせも受けた。ある飲食店のアルバイト面接を受けた時、店長という名札をつけた男が僕の履歴書を見て大阪出身と知り、「まいったなぁ。うちのオーナー、大阪人を毛嫌いしてるんだよ」と言われ、帰り際に「採用は難しいと考えておいて。いや、俺は大阪好きなんだけどさぁ」と言われた。まごまごしているその男の姿を見て、そんな理由で合否を決めるような職場ならこっちから願い下げだと思った。
もちろん、大阪人ということで好意を持って接してくれる人もたくさんいたので、大阪人を嫌う人に関しては「そういう人もいる」とくらいにしか感じていなかったが、自分が一生付き合おうと考えている人の母親が「そういう人」だったとしたら、それはちょっと困るなと思い、「もしかして、俺が大阪人やから?」と彼女に聞いてみると、彼女は驚いて首を横に振った。問い詰めて聞いてみると、良く思われていない理由というのは、大阪出身というのは全くもって関係なく、僕が大学に通っていないことに原因があるらしい。つまりは学歴が問題になっていたのだった。



「それだと田舎から出て来て下北沢なんかのアパートに住んでボロローンってギター搔き鳴らしてる自称ミュージシャンと大差ないじゃない」と言われたらしい。甲本ヒロトだって昔は下北沢のラーメン屋でアルバイトしながら歌っていたし、あのジェームズ・ボンドだって朝早く起きて牛乳配達をしながらハリウッドスターを夢見ていた。そうは言いたくても相変わらず写真のコンテストには落ち続けていたし、まだ何一つとして結果を手にしていない僕には返す言葉がなかった。目下の問題は彼女の親に認めてもらえないことが僕にとって重大事項であった。そうなるともう、余計にコンテストで結果を出すしかなかった。しかし写真は全く持って認められず、写真が認められないから尚更に彼女の親には認められない、そんな負の連鎖がしばらく続いた。


ある日、一人で写真の展示を見に新宿へ出た。目的の展示は期待外れに終わり、帰りにふらりと寄った写真展である出会いがあった。そこで展示されている写真は僕の好みだったこともあり、会場にいた作家と話しをすると僕と同い年だった。さらには、その僕と同い年である作家はKといい、僕がずっと出し続けているコンテストに入賞したことがあるということがわかった。僕が応募しだしたよりもずっと前の回だったけれど、「俺もがんばらなあかんなぁ」と、素直に感心した。さらにはKの彼女も写真家でそのコンテストに入賞しているという。彼女は入賞し、その回のグランプリにまで選ばれたらしい。回を聞いてみると僕も応募して落選していた回だった。自分が落ちたコンテストの展示には必ず足を運んでいたので、その彼女の写真も見て知っていた。Kとは同い年ということも手伝って気が合い、今度一緒に飲もうと約束して連絡先を交換した。「その時彼女も紹介するよ、写真トークをしよう」と言われ、僕の頭の中ではKとKの彼女二人共に負けているんだという事実がチラリと頭をよぎりはしたが、Kのカラッとした気持ちの良い性格のおかげで不思議と敗北感はなかった。それよりも、彼女を紹介すると言われたことが、認め合った証のような気がして嬉しかった。「俺もそん時彼女連れてくわ」などと言い、実際に四人で居酒屋で飲んでる場面などを想像したりもした。


普段は大学の寮で生活をしている彼女が、週末に実家に帰るらしく、「彼が挨拶に来たがってるってお母さんに伝えておくよ」と連絡が来た。まだ伝えてなかったのかと驚いたが、なにか前に進みそうな予感に少し嬉しくなった。
数日後戻って来た彼女に、「お母さん、なんて言ってた?」と聞くと、彼女はとても言いにくそうに「仏教大学でもキリスト大学でもいいから大学を出るように彼氏に言っておきなさいって」と下を向いた。彼女は大学で教職を専攻していた。彼女のお母さんの娘に対して抱いてる理想は、卒業後学校の先生になり、結婚する相手も先生がいいとまで言っているらしく、学歴もなく、安定もせず、将来に対して何の保証もない僕みたいな奴はやはり彼氏と認めたくはないんだろうなと思うと、下を向いている彼女を不憫に思った。
写真家だって大御所になれば先生と呼ばれる。写真で圧倒的に結果を出せば自分も認められるんではないか。
「早く賞とってよ。お母さん、そういうのに弱いところあるから」という彼女の言葉に強く頷いたものの、楽しくて仕方がなかった写真を撮るという純粋な行為に、何か義務感にも似た感情が混ざるようになってきていることにも気づいていた。無色透明の純水に落ちた一滴の墨汁が徐々に徐々に浸透し、全体を薄く濁していった。



自分にとって自信のある作品がコンテストでは蹴られ続け、自分が落ちたコンテストの展示を見に行ってみても展示されている写真作品にも、グランプリ作品にでさえ、自分の写真が負けてるとは思わなかったが、それだけに同じコンテストに繰り返し落ち続けていると、さすがに精神的にもまいってきた。
これだけ自信がある作品が落選し続けるのはおかしいと思い、コンテストにも傾向があり、出し続けているコンテストには自分の作品の趣向が合っていないんじゃないかと考え、一度、浮気心で他のコンテストにも応募してみた。そのコンテストにもやはり落選し、もし入選していたら自分の写真が飾られたはずの展示会場まで足を運んだ。初めて行ったその展示会場はビルの5階にあり、二つの部屋が並んでいてそれぞれに独立した会場になっていた。最初の会場に展示されている写真を見終わって芳名帳に記帳しようとボールペンを手に取ると、芳名帳にKの名前があった。
「あ、来てたんや。会いたかったなぁ」と思って次の部屋に入ると中にはKがいて、女性と並んでもう一人の男性と三人で親しそうに話していた。Kの横にいるのはKの彼女で、向かい合って話している同年代の男性はコンテストに入選してこの部屋で展示している写真の作家だろうということは容易に予想できた。思いがけない再会に嬉しくなり、その部屋の芳名帳にも記帳してから、談笑しているKの背中に声を掛けた。三人の輪に入ると、Kが「この子は自分の彼女で、この人は今展示してる作家で友人なんだ」と紹介してくれた。やはり予想通りの結果で、今度はKが僕を二人に紹介してくれるのを待った。Kは僕を指し、「えーっと、、、ごめん。誰やったっけ?」と言った。
その言葉に他の二人が笑い、つられてKも笑い出した。僕はその瞬間、逆立ちしたように全身の血が頭にのぼった。「前に展示会場で話しさせてもらったやん」と言ってKと出会ったギャラリーの名前をあげた時、僕は全身を敗北感に支配された。「展示見させてもらうわ」と言ってその輪から外れた。怒りで声がかすれていた。
展示されていた写真は当時はまだ珍しかったデジタル写真の合成写真で、僕がコンテストに出した写真とはまるで真逆の写真だった。会場を一周したものの写真が頭に入ってこず、三人が談笑しているのを視界の端に捕らえると挨拶もなしにそのまま会場を出た。逃げるようにエレベーターに乗り込み、扉が閉まる間際にKが芳名帳に僕の名前を確認しに行くのが見えた。扉が完璧に閉まった時、Kが二人に何かを言ったのであろう、三人が同時に笑うのがエレベーターの中にまで聞こえた。急速に下降するエレベーターの壁を殴った。いつか殺したる、いつか殺したる、いつか殺したる。気がつけば念仏のようにつぶやいていた。



その日を機になかなかシャッターを押せなくなった。ファインダーを覗いても「これはほんまに良い写真なんやろか」と考えてしまうようになり、考えているうちにファインダーの中の景色は退色していった。日中に写真を撮れなくなった。どの方角にも全く認められないという現状からの敗北感が、なにか自分は偽物ではないかというコンプレックスを生み、日中の光に晒されると自分の化けの皮が剥がされるように感じ、夜にばかり写真を撮るようになり、闇に向かってまるで舌打ちのように「チッ、チッ」とシャッターを押してばかりいた。暗い写真ばかりがたまり、ますますコンテストには見向きがされなくなった。


部屋に戻ればバケツに水を溜め、あぐらをかいてそのバケツを両足で抱え込み、バケツに手を突っ込んで手首から先を水に浸した。その時だけが精神的に落ち着ける時間だった。季節は冬に近づいていたが真水に手をつっこみ続けた。バケツの中の水にあたかも満月がごとく天井の裸電球が映った。両手ですくおうとするも、満月はひたすらに畳の上にこぼれ続けた。