阪本勇「猿と天竺」⑤





第五話




その頃から頻繁にギャラリーへ足を運び、知らない人の展示を観に行くようになった。勉強のつもりだったが、在廊している作家と話しをするのは楽しく、少しずつ写真関係の繋がりができていった。話をしていると写真家には大きく分けると二通りの人種がいることに気づいた。写真作品の話をする人と、カメラ本体やレンズなどの機材の話をする人。自分が撮った写真の事を話す人からは、時折その人の人生が垣間見える事があり、聞いていて面白かった。逆にカメラやレンズの性能などの話をされていても僕は面白くなかったし、そういう人とはあまり仲良くなれそうになかった。


僕自身、カメラそのものは好きだったが、性能では選ばず、ただただ見た目の格好良さで選んでいた。中古カメラ屋でも格好良いカメラを見つけるとガラスショーケースから出してもらい、実際に触ったりシャッターを切るのはすこぶる楽しかったが、店員が耳元で「このカメラはフォーカルプレーンシャッターではなく、レンズシャッターなので、、、」などと、云々かんぬんが始まると、僕はいつも思考を停止させた。


休みの日にアルバイト仲間と二人で飲みに出た。僕と同様、いつもは赤提灯に安堵する友人が、その日は何を思ったのか小洒落た店の前に立ち、「ここに入ろう」とドアを開けた。どこか場違いな感じを味わいつつ、しばらく飲んでいると、カウンターの上に置いていた僕のカメラを見た、横で一人で飲んでいた四十代のスプリングコートを着た男が話しかけてきた。「君はカメラマンなの?」と聞かれ、どう答えていいかわからず、「はい。写真撮っています」と答えた。どうやら男はカメラマンらしく、自分の仕事の話をし始めた。男の話には誰もが聞いたことがあるような有名人やブランドの名前が頻出した。僕のカメラを指差し、「なんでこのカメラ使ってるの?」と聞くので、「見た目が格好良くて好きやからです。自分が格好良いと思うカメラ持った方がテンション上がるし、いい写真撮れるんちゃうかと思うんです」と答えると、「馬鹿言っちゃいけないよ。デジタルカメラは何使ってる?フォトショップは?」とさらに聞かれた。デジタルカメラも持っていないし、フォトショップどころかパソコンも持っていないと答えると、「あーあ、残念。この時点でデジカメに触ってなきゃ君はもうプロにはなれないよ」と男は馬鹿にしたように笑った。その頃、カメラは急速にデジタル化が進みつつあった事は知っていたし、フォトショップはまるで魔法のように何でもできることもカメラ雑誌を読んで知っていた。デジタルカメラに興味がないわけではなかったが、如何ともし難い金銭的な問題があった。その頃、デジタルカメラはまだ驚く程高価な物だったし、生活すらままならない状態の僕には手が届かない物だった。
「こいつんち、テレビすらないんですよ」と友人が横から茶々を入れた。それは事実で、僕はラジオばかり聞いて過ごしていた。男は「本当に?三重苦じゃん。可哀想だから一杯奢ってやるよ」と下品に笑った。僕は顔も見ずに断った。「言っとけ」と心の中で思った。写真コンテストでグランプリを獲ったら三段とばしで階段を駆け上がってやると思っていた。僕はコンテストに応募中だということを黙っていた。テレビがなくとも、腹が減っても、結果が出ていない未来があるということがその時の僕の唯一の希望だった。



アルバイト先の店には、来月はあまり出れないと言っておいた。コンテストに入賞し、なんやかんやで忙しくなると踏んでいた。入賞者には締め切りから二週間以内に電話で連絡が来ることになっていた。締め切りから二週間後のその日は、店が一番忙しくなる金曜日だったが、無理を言って休みをもらっていた。入選の電話連絡が来た時に、もしも出れなかった場合、他の人に入選が回されるんじゃないだろうかという不安があった。募集要項に載っていたコンテスト事務局の電話番号を携帯電話の電話帳に「グランプリ」という名前で登録した。入選して連絡が来たら僕の携帯電話の液晶画面には「グランプリ」と表示されるはずだった。


幼い頃、近所に住んでいた五つ年上の倉田君によく遊んでもらった。倉田君は喧嘩も強くて、頭も良く、年下の僕にはいつも優しく接してくれた。ある時、倉田君が緑色のブーメランを持っていた。持たせてもらうと思ったよりもずっしりと重く、ビーズで装飾させたそれは、少年たちを魅了するには余り有る程の輝きを放っていた。僕はどうしても欲しくなって、「これどうしたん?」と聞くと、漫画雑誌の懸賞で当たったと教えてくれた。「切手を貼るところあるやろ、あそこに赤鉛筆で「当たる」って書いてから、その上に切手を舐めて貼ったんや。ほんならほんまに当たったんや!」と興奮気味に教えてくれた。その日その瞬間から僕はそういう目に見えない物事を信じるようになった。小学生の時、国語の授業で、「念ずれば花開く」という言葉が出てきた時に、クラスのお調子者が、「ひらけー!」と叫んで黒板横の花瓶に差した花を指差してみんなは大笑いした。僕は、「もっと真剣にやらな開かへんで」と思った。


金曜日、僕は朝から畳の上に置かれた携帯電話を睨みつけ、液晶画面に「グランプリ」と出てくるのを今か今かと待っていた。いっこうに鳴らない携帯電話の前で腕を組み、徐々に自信がなくなっていく自分を誤摩化すように一点を見つめ続けた。夕刻になって、その日一歩も外に出ていないことに気づき、缶コーヒーを買いに外へ出た。自動販売機の前に立つと、先にある工事現場の労働者たちの怒鳴り合いのような会話が聞こえた。「もう遅いし終わりにすんべ」という言葉が聞こえ、その言葉を機に今まで張っていた緊張が一気に解け、ひどい敗北感に襲われた。空はもう茜色に染まっていた。


数日後、ポストを開けるとコンテスト事務局からの封筒が届いていて、開封すると落選通知が入っていた。その落選通知には、審査員からのコメントが添えられていて、もしかしたら自分は写真家には向いてないんじゃないかとも思ってしまうような言葉が羅列されていて、その言葉が余計に僕を奮い立たせた。コンテストで入賞するだけが道ではないと自分に言い聞かせ、クシャクシャに丸めてゴミ箱に捨てた。畳に寝転び、裸電球をみつめながら考えたが、しかしコネも繋がりもほとんど皆無に近い自分に他に糸口が見つけられず、クシャクシャに丸めて捨てたその落選通知をゴミ箱から取り出し、手で皺を伸ばし、部屋の壁に画鋲で貼りつけた。