鈴木諒一「水辺のそばで眠ること」 ③





3.




-声-



 隣人は自分の声にもテレビのように音量があることをわすれてしまった火星人だった。大学生のすがたにばけた火星人は月曜と水曜に友人を部屋に連れ込み、わたしがかつて火星人だった頃のようにその音量のことをわすれて日々を謳歌していた。そして火曜はおそらく星に帰っていたので終始静かだった。わたしの聞いたことのないアニソン調の歌を間奏までしっかりとって声高にうたい、深夜に突然大きな声で独り言を言ったかとおもうと、はたと寝息をひびかせる。寝息は、それが彼のほんとうの声、つまりは火星的な真実としての声であるかのように澱みなくひびいた。彼にとってのロビンソンクルーソー島であるこの場所で、そうしたさまざまな声が、わたしにとっての魚偏の湯のみのような役割を担っているのかもしれなかった。
 そういえば、一昨日も朝っぱらから、彼は朗らかな声を披露してくれた。休みの日もうかうか寝てはいられない。選挙カーから流れる紋切型な主張にもまるで屈することなく、その声は伸び伸びとしていた。もしかしたら火星でも近々選挙があるのかもしれない。けれど彼は、「沿道からのご声援ありがとうございます」なんて間違っても言わないし、団地の前で車をとめて、自分の名前を連呼することもない。政治の言葉をもたないで、そうしたことをやってのける。
 彼の声がはたして火星に届いているのかどうか、あたりまえながらわたしには判断がつかない。アニソンにしか聞こえないその歌が、どんな温度で流れ、どんな岸辺にたどり着くのかも、もちろん判然としない。ただその声は、いつでも変わることなくまっすぐに伸びつづけたので、彼にはつよい根っこのような確信があるに違いなかった。わたしはそれを探るべく、望遠鏡で火星をのぞいてみたくなったが、あいにく今の時期はうまく見えない。太陽に近すぎるのだ。太陽の強い光のせいで火星は姿を見せてはくれない。ちいさな点としての火星、それすら見えない現状がすこしつまらない。どんなにちいさな点であっても、それはもう己が乗り移ることの出来る点だ。見ていることも、見ないでいることも出来るなにかだ。わたしにもかつてそんな点があった。



 隣人の洗濯機がまわる。火星人の衣類がその内側でかきまわされている。ぐるぐると回転して円を描いている。からっぽの円。その音だけがきこえてくる。彼もこの音をきいているのだろうか。
 洗濯機のおかれた共用廊下は、施行のミスか長年の負荷によってあきらかに斜めに傾いていた。鳥が運んできた木の実も、酔っぱらったおじさんが投げ込んだパチンコの玉もころころといきおいよく転がっていく。だから洗濯機も同様に傾いていて、わたしたち住民はそれを水平に保つためにゴム板や雑巾を挟んだりとそれぞれに工夫していた。そうでもしなければ、洗濯機はこの世で一番ぽんこつな機械のごとしすさまじい音をたてて回り、近隣住民の怒りを買いかねなかった。火星人もなぜか洗濯機には繊細な感性をはたらかせ、せっせと例の工夫に勤しんだ。けれどこれまでの通り、自らの声についてはまったくと言っていいほど火星的だったせいで、彼は近隣の監視網から逃れることができなかった。



 火星人は、鉄仮面みたいなサンバイザーをつけて自転車にのる騎士のようなおばさまたちから  
「あいつは無害な愚者にすぎない」
 との烙印をおされている。あけっぴろげた窓の外より、ご近所のヒソヒソ話がわたしの耳へと流れてきたのだ。おばさまたちはヒソヒソ話すふりをしているだけで、その声の実際の音量はわたしや火星人がドトールでコーヒーを頼む音量の4倍はくだらない。舞台の上の役者のように、どんな小声もききとりやすい。火星人にきこえたら、まずいな。紫外線のこわさを知らない火星人に、あの鉄仮面サンバイザーを見られたら宇宙戦争に発展しかねない。これはマーズアタックだな、なんてくだらないことを考えていたが、火星には政治の言葉がないのだから、やはり戦争はおこらないのだった。





鈴木諒一 / SUZUKI Ryoichi
1988年静岡県うまれ。
web : http://www.suzukiryoichi.com/