阪本勇「猿と天竺」⑨





第九話




以前働いていた交通誘導の同僚のおじさんに年齢を聞かれて答えると、「ジミー・ヘンドリックスだ。君は結果を出さないまま長生きしちゃったね。あとジャニス・ジョプリンもそう、みんな君と同じ二十七歳で亡くなったんだよ」と言われた。この人はなんていうことを言うんだと驚き、「じゃあ、あんたはなんで五十歳にもなってこんな夜中に時給で誘導灯振ってるんですか」と、嫌味のひとつでも言い返してやろうかと思って顔を見れば、目ヤニの溜まった目は瞳孔が開き、意思なく開いた口に前歯はほとんどなくよだれが垂れていて、なんだか見てはいけないものを見た気がし、ゾッとして目を逸らした。俺はこの人と同じ仕事をしているのかと思うと空しくなった。誰にでも出来る事ばかりをして日々を過ごしていた。「俺、ミュージシャンちゃうし」と心の中で舌打ちしたが、自分にしか出来ない事なんて到底見つかりそうになかった。


交通誘導や土木作業員、レンタルビデオ屋などのアルバイトを転々とし、その頃はスーパーマーケットでの深夜アルバイトに落ち着いていた。深夜帯の仕事のほとんどは品出し作業で、その日に品出しする商品のリストが印刷された用紙が渡され、基本的には誰とも会話することなく黙々と作業をする。カップ麺類やスナック菓子などの軽いものは女性や年配の人が担当するのが暗黙の了解らしく、僕に配られるリストにはいつもお米類や飲料系などの重たいものが記載されている事が多かったが、今までの肉体労働とは比べ物にならないくらいに楽な作業だった。深夜帯には社員はおらず、契約社員で深夜リーダーという名目の香取という五十歳前後の男が仕切り、アルバイトに指示を出した。


バックヤードに置かれている大量のストックの中から自分がその日担当する商品を探し、古いものを前に出して持って来た新しいものを後ろに置くというルールに沿って店内の棚に陳列していく。ただただその繰り返しなので大変な作業ではなかったが、決して楽しい作業でもなかった。品出し以外の作業として、一時間ずつ交代で回ってくるレジ担当の時間は特に楽だった。深夜なのであまり客は来ず、最初の五分程でレジ袋や箸等の備品の補充を済ませてしまえば他にはもうすることがなく、ただただ客がレジに来るまでの時間を潰すだけだった。深夜に来る客の中にはテレビや雑誌等で見たことがある顔も時々来店し、「さすが東京やなぁ」と感心した。深夜によく来る客の一人にあるおじさんがいた。そのおじさんは浮浪者と呼ぶには失礼だけれども、髪もヒゲも伸び放題で、服は革ジャンにジーパン、ニットキャップを被り、お洒落と言えばそう見えなくもないがその組み合わせ以外を見た事がなく、明らかに世間一般並の生活をしている人ではない雰囲気だった。かと言って浮浪者特有のあの鼻につく粘っこいすえた匂いなど放たず、どうやら香水を振っているらしく、むしろいい香りがした。おじさんはいつも「寒い寒い」と手を擦り合せながら店内に入ってくる。暖をとりに店に来ているのは明らかで、一時間程店内を歩き回った後に何か百円程度のものを買って出ていく。師走に入り、その冬の寒さは例年よりもさらに厳しかった。


僕はそのおじさんとあるきっかけで話すようになった。夜勤明けで、賞味期限が迫って値引きされたブドウパンを買って帰り、いい天気だし外で食べて帰ろうと思って寄った公園のベンチにおじさんが座っていた。ボロボロの、しかし頑丈そうな自転車を横に停めていて、その荷台にはサーカスじゃないかと思うくらいの大量の空き缶を詰めたゴミ袋が括りつけられていた。目が合ったのでなんとなく曖昧に挨拶をすると、おじさんも僕が誰だかわかったらしかった。横のベンチに腰を下ろすと名前を聞かれたので答え、僕が聞き返すと「石原裕次郎だ」と言って笑った。僕も笑って何度か聞き直すも、笑って同じ答えしか言わない。「言いたくないんかも知れへんな」と感じ、僕はそのおじさんを裕次郎さんと呼ぶことにした。裕次郎さんはいつも同じ服を着ていたが、見ようによってはお洒落だったし、石原裕次郎は言い過ぎだとしても、伸び放題暴れ放題の鼻毛にさえ目をつぶればなかなかのいい男だった。裕次郎さんは自分のことは決して話そうとはしなかったが、時折ぽろりと出る訛りから地方者というのは予想できた。


ある夜、品出し作業をしていたら香取がアルバイト全員を総菜売り場に集めた。
「おにぎりの数をメモして」という指示を出し、今までそんなことはしたことがなかったので不思議に思っていたら、「あいつきっとおにぎりを盗んでるぞ」と言う。
香取の視線の先には裕次郎さんがいた。僕は驚き、「そんなわけないと思いますよ。あのおじさんいつも何かしら買って帰りますし」と言った。裕次郎さんはいつも必ず総菜パンや缶コーヒー、板チョコなど百円程度の商品を買って帰る。気を遣ってか、何も買わずに店を出たことは僕が知る限り一度もない。しかし香取曰く、裕次郎さんが来た日にはおにぎりが減っているらしい。「おにぎりを買っていくこともありますよ」と僕が意見しても、「まあ、数えてみなさい」と薄ら笑うばかりだった。確かに店内の商品を眺めながら店内をウロウロする裕次郎さんは少し怪しく見えるかもしれない。でも僕には、たとえいくらお金に困っても万引きをする様な人には思えなかった。その日も裕次郎さんは小一時間店内をウロウロと歩きまわって暖をとった後、缶コーヒーを手にしてレジに向かった。すれ違い様に声をかけてきてくれた裕次郎さんに事の詳細を話すべきかどうか迷った。しかし、もしそうすれば自分も裕次郎さんを疑っていることになるし、なにより探偵気取りの香取がずっと見張っていた。僕はどうしたらいいのかわからず、ただ手を挙げて挨拶を返した。裕次郎さんの目を見ることが出来なかった。



裕次郎さんがレジに向かい、再び総菜売り場に集められた僕らはおにぎりの数のチェックをした。「急いで!こういうのは現行犯だから!」と香取は興奮状態だった。メモしていたおにぎりの数を読み上げさせ、売り場に残っている数を香取が数えていった。「シャケ3、梅1、おかか4、、、」、信じているとはいえ、僕は祈る様な気持ちでその照合を聞いた。結果、おにぎりの数はチェック前とひとつも変わらずに残っていた。「おかしいなぁ」と悔しがる香取に怒りを覚え、「おかしいなぁ とちゃうがな」とわざと聞こえるようにつぶやいた。その言葉に一同は凍りつき、香取は僕を睨むようにジッと見た。僕が目をそらさずにいると、「じゃあ仕事に戻って」と、さも何事もなかったように立ち去っていった。


それから一週間程経ったある夜の作業中、「業務連絡、業務連絡。ヤマダさん、ヤマダさん。レジまでお越し下さい」との店内放送があった。誰かに何かの用事がある時は案内カウンターにいる人が店内放送をかける。案内カウンターに人がいない深夜帯はその日当直の警備員さんがそれを請け負っていた。けれど、ヤマダという名前の人は深夜帯に一人もいなかったので、その聞き覚えのない名前に違和感を感じて作業の手を止めた。すると、香取が僕のところへやって来て、「ちょっと一緒に来て」と言い、着いていった先には裕次郎さんがいた。裕次郎さんもこっちに気づいたようで、僕に向かって笑いかけた。僕も手を振ろうかと思った瞬間、いきなり香取が裕次郎さんに怒鳴り出した。
「おい、お前!迷惑なんだよ、出て行け!もうこの店に二度と来るな!」。突然の事過ぎて僕は何が起こったのか理解できなかった。裕次郎さんは明らかに狼狽し、怯えていた。さらに罵倒を浴びせる香取に対し、裕次郎さんは何か聞き取れない弱々しい言葉を口ごもり、走って店を出て行った。



香取の豹変振りにあまりにも驚き、僕は裕次郎さんを追いかけることが出来なかった。今しがた目の前で行われた事は、強い者が弱い者に行ういじめなんかではなく、弱い者がさらに弱い者を見つけて叩くような胸糞悪いものだった。香取の人間性に狂気を感じた。僕が呆気にとられていると香取は警備員のところに行き、興奮で鼻の穴をおっ広げたまま愉快そうに話し出した。その二人の会話から、なにかこれは仕組まれていたものだったらしいと理解し、武勇伝を話すかのような香取の面を見ると怒りが爆発した。「どういうことなんですか」と香取に詰め寄った僕の声は怒りに震えていた。「あいつ、店にとって迷惑だし、平気な顔していつも来るから駆除してやっただけだよ」と手柄のように話した。駆除という言葉に僕は理性を失い、
「なんやねんそれ!俺が裕次郎さんと仲良いって知っててわざと俺連れてったんやろ!そうすることで裕次郎さんは余計に傷つくからやろ!だからやろ!そうやろ!」
「なに?あいつ裕次郎っていうの?ああいうやつは何持ってるかわからないし、下手に刃物でも出されたら危ないから君連れて行っただけだよ」。
「それは嘘や!もしほんまにそうやったとしたら、俺にもそれ言っとかなあかんのちゃうんか!自分のことだけ考えて、お前も裕次郎さんにそんなん言えたもんちゃうやろが!おかしいんちゃうんか!」。
「もういいから仕事戻るよ。ちゃうちゃうって方言過ぎて何言ってっかわからないよ」。
失笑しながら放ったこの香取の言葉に僕の我慢の糸が切れた。歩き去る香取の背中めがけて左右ひとつに丸めてまとめていた軍手を力任せに投げつけた。興奮で手元が大きく狂い、軍手は香取の先にある陳列棚に直撃し、かかっていた電池がバラバラと落ちた。香取は一瞬びくっと身体を震わせたが、振り返りもせずにそのまま去っていった。



後に警備員に聞いたところ、裕次郎さんが来たら案内マイクで知らせてほしいと言われたという。その際、「ああいうやつに自分の名前を覚えられてはまずいから」と言う理由で、「ヤマダ」という名前で呼ぶようにと香取から指示があったらしい。どこまでも下劣な奴なんやと思った。朝になって社員やパートのおばさんが出勤してくると、すぐに僕は店長に呼び出された。
「香取さんから聞いたよ」と店長は困った顔で僕を見た。どうせ自分に都合のいいようにしか話してないんだろうなと思った。
「あんな奴の下で働きたくないんで辞めます」と申し出た僕に、
「香取さんから一方的に話は聞いたけど、君だけが悪いんじゃないのはわかってるよ。でも香取さんは一応契約社員だし、ほら、年齢も年齢だから辞めさすことができないんだ」と言い、「香取さんが出勤じゃない曜日だけでも来てくれないか」と提案された。
それも断って部屋を出ようとする僕に、
「君を辞めさすことになってごめんね。でも君にはまだ未来があるから」
と言った。瞬間的に様々なことが頭をよぎり、
「そんな未来ならいらないです」
と意味不明なことを口走ってしまった。部屋を出た途端、悔しくて泣いた。店長に恨みはなかった。ただただ自分の現状が情けなかった。



ロッカールームでエプロンを外して私服に着替え、そのまま帰ろうかとしたが、思い直していつものように廃棄寸前の値引きされたパンを選んでレジに並んだ。
いつも僕の事を気にかけてくれてるパートのおばちゃんがいた。そのおばちゃんは恐らく母親と同じくらいの年齢で、だらしなく結んだ僕のエプロンの紐をきつく結び直してくれたり、僕の好きなカニクリームコロッケを夕方のタイムセールの時に買ってロッカーに入れておいてくれたりした。そのおばちゃんが立っているレジを探して並び、「僕、今日で辞めるんです。今までありがとうございました」と御礼を言った。驚いたおばちゃんに事の顛末を話すと、
「香取のことはみんな嫌ってんだから気にすることないよ。あいつのいない曜日だけでも来ればいい」と店長と同じことを言ってくれた。それも断った事を話すと、
「そんな急に辞めちゃ食えなくなるだろう。確か駅前のスーパーが深夜バイト募集していたはずだから、今から私が聞いてきてやる」。
今にもエプロンを外して駅前に走り出しそうなおばさんを止めたが、そう言ってくれる気持ちが嬉しかった。
「どうせ退職金なんて出ないんだから、退職パンだ」と言っておばちゃんが自分の財布から会計を払ってくれた。
「そんなんやったら値引きパン選ばんかったらよかったです」と僕が冗談を言うと、おばちゃんは涙目になっていた。



糸が切れた操り人形のようだった。新しいアルバイトを探す気にもなれず、ただただ家で寝てばかりいる日々を過ごした。当たり前のように生活は困窮し、追いつめられても動き出す気力が出なかった。家賃すら払えず、ガスを止められ、携帯電話も止められ、ついには電気も止められた。住んでいたアパートはあまりにも築が古過ぎて戸別に水道料金を割り出す事が出来なかったので、アパート全戸の一ヶ月の水道料を住人数で均等に割った。それが幸いして僕が水道料金を払わなくても水道を止められる事はなかった。来る日も来る日もただただ水道を捻って水をがぶがぶ飲んで腹を膨らませた。いつしか大便をしても固形物が出なくなった。赤痢にかかったかのようにただひたすらに肛門から汚い水ばかりが排出された。写真集や画集等の豪華本、漫画やCD等、めぼしいものは全てお金に換えた。狭い室内を見渡しても金銭に換金できるものはもう何一つ見当たらなかった。電気が点かない日当りの悪い部屋でただただ空腹に耐え、畳の上に横たわっているだけだった。時折部屋の戸がノックされると、それは電気代やガス代等、何かの請求に違いなく、薄い寸足らずのタオルケット一枚を頭から被り、ただひたすらに沈黙を通した。