2.
-せせらぎ-
うつくしい川のせせらぎにも似た洗濯機の排水の調べ。スズメが啼いていることはこのさい省いてもいい。 わたしの目覚めは、隣人の生活のもたらした奇跡的な夢想の中で飛沫し、飛翔し、そんな言葉でさりげなく忽せに。洗濯機の排水とうつくしい川のせせらぎ、いまや双子のような両者。そのはざまで切れ切れになりながらも、どうにか岸辺をとらえた目覚めは、丁寧に磨かれた木魚のような石ころにやっとのことで手をのばす。朝をのっけておけるだけの固い感触。その感触に並走して手から安堵がかけていく。
無事に陸地にたどり着いたのだ。わたしのためのロビンソン・クルーソー島、そしてはじまる冒険の日々。もうへこたれてはいられない。うかうかしていたらすぐに夜だ。生きのびるためには行動しなくてはならない。たくさんのいつか見た方法たちを再度発見しなおして、素早く舞台にひきもどす。いつか見た方法で火をおこし、いつか見た方法で水を得る。何かしらの大きな葉っぱで暖をとり、それでいて変な虫には刺されないよう警戒をおこたらない。
けれど息苦しいのはご免被りたいので、ヤシの実でつくった愛すべき手製の湯のみには、たくさんの魚偏の漢字を石のナイフで彫りこんで、日々寿司屋気分を味わってやる。変な動物の内蔵を食べ過ぎて、いつかこの身が野獣のそれに染まりかけたとしても、湯のみの漢字のバカバカしさが、きっとわたしを救ってくれる。わたしを救う鱒、鮭、鯨。なにせそこに書いてあるのは、言わずもがな既に自分の知っている漢字ばかりなのだ。漢字を教えてくれる鯛や、鰯や、鯵がもしも近所に住んでいたのなら話はもっと複雑だったが、経験上どうもそんなことはないように思える。だから結局いつまでたっても新しい文字は覚えられず終い。見知った漢字の確認に明け暮れる毎日は、へんてこでおかしい。ただかえってそれが生きるべき日々のように思えて、おかしみはさらに増す。
そんな風にして、なんとも都合の良いロビンソン・クルーソー島での新生活がどうにか幕をあけたところで、枕元の携帯電話の目覚まし時計がぶるるるっと勢いよく鳴り響き、島で過ごすはずだった28年間は一瞬のうちに過去のものとなった。島は圧縮された時間のなかに音もなく沈み、ヤシの実でつくった湯のみも幻に消えた。なんてことはない。石ころだと思って手を伸ばしたものは、携帯電話のなめらかなボディだった。愛すべき素晴らしい想像力。けれども、如何せんロビンソン・クルーソー島への寄り道はスムーズな目覚めには遠回りが過ぎる。
それからクリアーボタンの長押しで携帯のスヌーズ機能をとめ、今度こそはっきりとわたしは目をあけた。そして目覚めていることを確かめるために、「おはようございます」と口を動かしてみる。その無意味なあいさつが原因で、乾燥して痛んでいた下唇の皮がぱっくりと割れた。なんてことだ。いつでも朝はものごとがうまく運ばない。わたしは乾いた溝に唾をながしこんで潤いを補填した。起きたらひとまずお茶を飲み、のどを潤してからリップクリームをつけよう。きっとこれはそういう類いのお達しなのだ。
部屋のなかには、隣人の洗濯機のうつくしい排水の調べが未だ響き渡っていた。木造二間、築40年弱のぼろアパートの2階、各々の玄関の入り口に置かれた洗濯機はそれぞれがそれぞれの川を持っていた。洗濯機は屋外に置かれて、はじめて個性的な音を出し個性的な川を持つようになる、とわたしは思う。
それにしても珍しい。隣人がこんなにも朝早くから洗濯機をまわしたことなど、今までただの一度もなかった。隣人の朝はいつだってとてつもなく遅い。そしてそういった点で、隣人はわたしを魅了していた。
鈴木諒一 / SUZUKI Ryoichi
1988年静岡県うまれ。
web : http://www.suzukiryoichi.com/