秦雅則×三野新×天野祐子(ゲスト)
(三野と天野は、先に吉祥寺にある喫茶店「くぐつ草」に集合している)
(三野は、くぐつ草カレーとビール、天野はくぐつ草カレーとコーヒー/ソフトタイプを頼んだ)
三野 すごいキレイな器ですね。(頼んだビールのタンブラーを見ながら)
天野 遺跡っぽいですよね。結構分厚いですか?
三野 分厚いですね。そして、レーヴェンブロイってところがいいですね~。
天野 どうぞ飲んでください。
三野 あ、んじゃ、お先にいただきます。ではでは、まず二人で乾杯~。(天野さんはコーヒーカップで)
天野 乾杯~。
三野 えっと、先ずは今回の趣旨説明をさせてもらいますね。今、『A letter from 善と悪』という往復書簡を秦さんと二人で、A組織というWEBサイトでやっています。7ヶ月くらい連載していて、そろそろ今後のことについて、どうしていくかも考えないといけないし、番外編をやらないかという話になったんです。ただ、番外編と言っても、張本人の二人が話をしてもつまらないし、僕から天野さんを含めて話するのがいいんじゃないかという提案をして、今日の鼎談になったわけです。
天野 ありがとうございます!ん?あれって、いつも実際に会って話したことを書いているんですか?
三野 いや、本当に文通で(笑)お互い全然会ってないんです。
(カレーがやってくる)
(二人とも煙草を吸う)
三野 僕自身、天野さんとは「independant light vol.4」(註:丸山勇太氏の企画する若手写真家のスライド&トークのイベント)で、30分ほどパブリックでお話する機会があって。ただ、そこでは話が途中で終わってしまった感じがあったので、ぜひともまたお話ししたいなっていうこともあったんです。それに、実は「independant light」の本番の時よりも、打ち合わせの時に話したことの方が面白かったんじゃないかという気にもなっていて、人がいない場所で話をしたらどうなるんだろうって興味があったんですよね。
天野 ありがとうございます。今回のお話が来て、今日までちょいちょい二人の連載を読んでいました。ただ全部は読めなくて・・・というのも難しくて!(笑)
三野 すいません・・・(笑)
天野 でも、なんとなく、二人の概念がマッチするポイントがあるんだなっていうのは分かりました。それが、私とどういう風に繋がるのかは未知数です。
三野 僕も最初、秦さんとは全然違うし、話をしても絶対合うはずないって思っていたんです。でも、やっているうちに、勝手に合わさる部分もあるんじゃないかって考えられるようになってきました。それに、いざ初めてみると、秦さんにもそういう部分があって、秦さんが僕の考えに寄せて考えてくれたりということもありましたね。あと、今回の天野さんに関しては僕が勝手に天野さんの作品に共鳴しているので(笑)本当に勝手になんですけど(笑)
天野 いえいえ。
三野 なので、話は出来ると考えているんですが、秦さんと天野さんがどういう風な話をするのかっていうのが、僕自身すごい楽しみ、というか、ワクワクしています。なので、最初僕も話しますけど、途中からは僕が司会みたいになって話を聞きたいな、っていうのがあります。
天野 秦さんと私を繋げるみたいな?でも、三野くんもいっぱい喋ってくださいよ(笑)
三野 そうですね(笑)
天野 秦さんの作品を初めて拝見したのは、私の友達の保谷綾乃ちゃんが写真新世紀に入賞して展示を観に行った時ですね。「明るい部屋」も、一回綾乃ちゃんがやったときに、観に行って知っているっていう感じです。
三野 僕は、その時まだ写真始めたばかりだったので、こういう人達がいるのか~っていう感じで、すげ~、ってなってて、その中でも秦さんの作品は一番わけが分からなかったんです。それに、グランプリだったし。あれは、本当に写真がよく分からなくなりました。
天野 爆発していたしね、私も分からなかったな。ただ、熱意っていうのは伝わった。
三野 今見たら、絶対に観方も変わっているんだろうなっていうのもあって。そういう部分を含めて、改めてまた観てみたいですね。
天野 審査員の野口里佳さんとかも、だから推薦したんじゃないかな。
(カレーの器がかわいい、という話をひとしきりする)
(カレーを食べ始める。天野の活動について聞く)
天野 自分が、どういう風にやっていきたいのかというのを、ここ半年くらい考えています。
三野 これまでは、近場や近所のある特定の沼についての作品を発表されていましたが、違う場所でもやってみたいっていうのもあるんですか?
天野 撮影自体のスタンスは全く変わっていなくて、作品を発表する場所についてずっと考えてます。以前は「私は美術作品を創っていてそういう場所で見てもらいたい」と思いながらその部分に焦点をあてて制作していましたが、近頃はその思いが2番目、3番目になってきているのかもしれません。眼にするもの、立っている場所への敬意が先にきて、それが筒としての私を通って結果美術作品になればと思っています。例えば宮沢賢治やビオトープ(註:生物群集の生息空間を示す言葉)みたいなことに興味が出てきていたり・・・。あとは、生物の分類とか、そういうことを学んでみて写真をやりたいっていうのがありますね。そして、そういうことをやるのだったら雑誌かもしれないし書くことかもしれないし、って言う風になってきた。
三野 あ、秦さんが!
天野 え?
三野 いや、人違いでした(笑)暗がりなので、秦さんに見えてしまいました。
天野 誰でもそう見えてしまう(笑)
(カレーうまいっていう話になる。そして、本物の秦が登場)
三野 お疲れさまです。秦さん髪切りました?
秦 前からこんな感じですよ。あと、ごめんなさい。展示の設置していて遅れてしまいました。
天野 はじめまして、天野と申します。
秦 はじめまして。よろしくお願いします!あれ?三野くんも髪切った?
三野 僕も、最近はずっとこんな感じです(笑)
(秦はビールを頼む)
(ビールがやってきて乾杯する)
秦 いやいや、横浜に居たので、ここまでの道のりが長くて。ただ、丁度いいかということで、今回の往復書簡を読み返しながら来たんですけど、改めて読んでみると一体何の話してんだろうって思っちゃいましたよ(笑)最初、雪の話をしている時は写真と繋がっていたけど、最近はもう写真と関係ないんじゃないか、とも思えるようになって(笑)ぎりぎり無理矢理に、繋げているというような気もする。
三野 僕は良いと思うんですけどね。
秦 そう?でも、最終的に三野くんがこれからどうしましょうか、と言って終わっていますからね。出来れば、それを今日決めれたら良いなと思っとります。
三野 なるほど。ついでに、いま天野さんと話していた内容は。最近、自分のどういうところを提示したり、発表したいかっていう話をしていて、いわゆる写真や現代アートの文脈ではなくて、そういうところから離れた場所に身をおきアプローチしていければいいなということでした。
秦 うらやましいですね。
天野 でも勿論、始まりは写真だと思うんです。写真って外に出て見ることから始まるじゃないですか。なにがそういうものと繋がっているかと言うと、「いま」なんです。「いま」というのは、過去と未来でできているという意味で、それがビオトープや自然と類似する感じがある。私にはそれが尊いと思うのでそういうことを考えている。
秦 天野さんって美大卒業ですか?
天野 そうですね。
秦 そっか。なんでそういうことを考えているようになったんですか?特別な勉強などをしていたんでしょうか?
天野 勉強していたわけではないですね。わたしは外を撮るのが好きなんですけど、そしたら、否応なくその土地のことを考えるじゃないですか?そこは昔どうなっていて、みたいな。そして、今後それはどういう風に変わっていくのか。そのほんの一部分を写すのがわたしの写真なんです。そこから、考えるようになってきた。そしたら徐々に、いまと、過去と、未来についても考えるようになってきて、そういうことを専門に考えているのは文化人類学だったり歴史学だったりするのだということに気が付いたんです。
三野 つまり、土地だったり、場所を撮りに行くっていうことは、その土地と関わらなければならないということですよね。それは人も一緒で、その人が過去にどういう遍歴や歴史や環境があったのかということを考えるように、土地にも同じような人格というかパーソナリティがあって、そこで大事になってくるのがその土地の歴史であったり、もしかすると、聖性と言われるものであるかもしれない。聖性とは、昔からその土地で語り継がれた物語があったりとか、その土地の記憶みたいなものが存在する特別な場所としての意味です。
秦 大袈裟に言えば、そうなるのか。僕からすると、普通に過去のことを文献や資料で調べて理解しようとすることは分かるんですけど、そのうちに未来まで考える、そして、その未来までを撮っているという感覚はどこから来るものなのか不思議に思います。例えば、現在進行形で関わり続けるというのがドキュメンタリーの一つのやり方であるとしたら、スナップなんかはもっと軽薄に、あまりその場所と関わらないほうが良いということも有り得ると思うんです。
天野 たぶん三野くんは、わたしのステートメントを読んでくれているので分かるとは思うんですけど(註:「independant light」で、三野は天野のステートメントを軸に対談をした)、いまっていうとじつは、いま、はないんだけど、もし、いまっていう言葉を使うとしたら、それは絶対に過去だけではないんです。未来とも一緒にくっついている。例えば、いま目の前に見た蟻が、明日、その蟻だとわかりますか?
秦 いや、分かんないですね。
天野 目の前の蟻を、明日見つけられないですよね?
秦 見つけられないです、僕は。
天野 そういうのを考えるのが楽しいんです。いま目の前に置いてある石が、どこから転がってきて、どうやってその後に砂になっていくのか、とかが気になっていて、そして一枚の写真には、それが全部含まれているんです。だから、未来は、いま、と切っても切りはなされないものなんです。
秦 面白いですね。
三野 写真にすると、当然過去と比較されるし、そのあと未来になっても、その写真は過去のものとして比較される。写真にする時点で、両方ともが、いずれにしろ過去になってしまうんだけど、過去と未来が両方とも含まれてしまう時間軸を持つ、ということですね。だから、その未来っていうのは、写真を見る人のものだな、とも考えられる。撮る人は、そんな未来のことまで考えられないと思います。撮る人が考えるのは、いま目の前にある過去までであって、未来のことを考えるのは、撮った後に写真を見返す段階で考えてしまうことなのかもしれません。つまり、写真を撮るときと、写真を見るときの体験の違いっていうのは、そういう時間軸の違いとしても表されているなと感じる。ただ、写真家は、当然撮るし見るから、その両方が常に混在しているように思える。
天野 確かに。そして、写真を見ている時も、もともとあった別の地下水脈のように時間が絶えず流れているものがあって、それに近づいて思い起こすことができれば、未来につながるような感じはあります。イメージは、目の前のもの、例えばこれ(カレーのスプーンを取り上げて)自体にはなくて、周りにあるじゃないですか。
三野 だから、天野さんは、例えば石を撮っているんだけど、実は石そのものを撮っているわけではないんですね。
秦 うーん。言っていることは分かるんだけど、矛盾してるし難しい話だな(笑)
天野 でも、わたしがすごい嫌なのは、この写真は嘘か本当か、とかよく言うじゃないですか。この写真は演出されたものだ、みたいな。それがすごい嫌です。
三野 それはなぜですか?
天野 見えるものが全てだから。
三野 ああ、なるほど。
天野 それに、わたしって論理的に考えたら、絶対に自分の発言に矛盾が生じてくるんです。だから、ぱっぱっと切り離して、その都度その状況で考えているんだと思います。
三野 でも、そんなに論理的に矛盾を孕んでいるようには思わないですけどね。
秦 本当ですか?(笑)
三野 いやいや本当に(笑)その論理は作れますよね。
秦 すごいな。僕は単純に、天野さんは違う二つのことを言っていて、そしてそれぞれは違う論理で作られていると思うくらいです。そして、その二つが偶然にもくっついたり、くっかなかったりするのを写真を通じて楽しんでいます、ということだと感じた。だから、その上で、未来まで写す写真ってなんだろうって、そんなのあるのかな、ってまだ考えちゃってましたよ。
三野 ステマになりますが、今度秦さんのところから出す『二十二世紀写真史』には、結構そこら辺のところが「ある」ということに基づいて考えた本ですよね。
秦 考えてた~!(笑)
三野 僕はまだ全部を読んでいないのですが、秦さんがタイムトリッパーのように時間を旅する役者で、その時代、その時代旅した写真家にインタビューをしていく感じなのかな、って勝手に想像しているんですけど。
秦 僕もまだ全貌がまだ見えていないのですが、タイムトリップが未だ存在しないことと同じように、この本も難しいものですよ。大体、あの企画自体がポップな感じですからね。だって、お酒飲みながら友達と話をして、写真のことを、まして未来まで考えてみるというものじゃないですか?それって、一歩間違えれば、ただのお遊戯レベルの話になっちゃう。ただ、そういう過剰な状況であるからこそ、原初的な素晴らしい言葉が出てくるっていうのもあると思うんです。でも、それがあまりにも見えづらくてね。
三野&天野 (笑)
三野 ノイズが大量に含まれていますからね。読み解くのが大変だという。
秦 それでも何十年後かに、この時代の写真家は楽しそうだな~って思ってくれたらと考えています。
三野 資料感ありますよね。中平が「provoke」で述べていた「写真を挑発的資料」として、言葉のオルタナティブとして写真を見做す考え方があって、今において、負け戦であるように思われたその実験を現在に再び反復するときに、写真とは資料である、というところは有効性が残っていると思う。『二十二世紀写真史』は、言葉として残す本ですが、そういう資料の重要性は継承されているんじゃないかな、と、まだ全部読んでないですけど(笑)
秦 そうですね。未来は言葉が作る、ものかもしれない。そして、僕は最近言葉にどんどん特化していっているじゃないですか。それって矛盾で、本当はとっても勿体ないことだと感じてはいるんです。労力を言葉に使っているという点で。でも、20年後、30年後を考える時に、写真家で文章を書ける人はどんどん少なくなっていくと思うんです。日本写真史には、批評と写真を一緒にやっていた人がいたからなんとかなっていると思える部分もありますし、そういう冷静さ冷徹さを持たないと出来ない仕事もあると思うんですけどね。それが減っていくというより、ビジュアルコミュニケーションだけに特化した写真家ばかりになるのもつまらないですよね。一辺倒で。だから『二十二世紀写真史』では未熟な言葉を残しておこうと思ったんです。若い写真家だから言える曖昧な、抽象的な話がキーポイントになることもあると思っていますし、それを残しておくことが、これからの写真に関してとても重要であると考えているんです。
三野 僕の担当する箇所の校正をさせて頂いたときに、すごく恥ずかしかったんです。だって、一年前の自分の言葉が、こんなにも稚拙だったのか、ということが痛いほど伝わってきた。けど、そこは一切赤は入れず返しましたけど・・・。
秦 人によっては、すごい赤を入れる人もいました。
三野 でも、本当はそこは赤は入れない方が良いと思うんですけどね。
秦 本当はね。その時の雰囲気が大事なわけじゃないですか。
三野 語尾を全部変えるとかは良いかもしれませんね。語尾に全部「ちょ」とかをつけるとか。自分をキャラクター化する。全部「そうなんだちょ。」みたいな人として振る舞う、とか(笑)
秦&天野 (苦笑)
(いっとき、世間話に移る。カレーを食べ終わる)
秦 最近、昔撮った写真を展示する機会が増えてきているんです。今、黄金町と神楽坂と東京都写真美術館と3つ展示をやっているんですけど、全部、昔撮った写真なんですよ。その行為が、良いのか悪いのかは分からないんですが、最近歳なんですかね?新作といっても5枚、6枚ずつ出したいっていうより、全部作って落ち着いたら出したいっていう風に変わってきている。あと、僕はあまりにも作品量多い上に、全部写真の傾向が違うのでぐちゃぐちゃなんですよ。そのぐちゃぐちゃのものの中に、何か発見したいという気持ちもあるのかもしれません。
天野 秦さんって一貫する、自分のテーマってあるんですか?
三野 素朴だけど、とっても大事な質問ですよね、それ。
秦 同じ写真家同士だから分かってくれるだろうという甘えの上で言いますが、僕はなにもかもが矛盾していることに興味があるんです。例えば最近、言葉の活動をやっていることもそうです。僕は言葉でなにかを語るっていうことを本当はしたくないんです。でも、それをやってしまう、ということとか。二面性とか、全く違う側面のことを並列するとか、そういうのを僕はテーマにしているんだな、と。作風バラバラなのもそういうことに原因がある。でも、30歳にもなって作風バラバラなままっていうのもどうなのかなって思いますけどね(笑)
三野 すごい分かりやすいです。別に写真家じゃなくても十分伝わると思いますよ。
秦 本当?だから、今の展示会でも写真のようなものとか、写真ではないようなものとかを並列している。そして、ここにあるものが写真か、写真じゃないかって分かる人がいるのかなぁ?というようなことをステートメントでも書いています。で、三野くんはどんなテーマで?
三野 そんな、ご趣味は?みたいなノリで聞くんですか!(笑)
秦 そうね。お見合いみたいになってますけど(笑)
三野 怖いと思う瞬間に興味があります。そして、それが写真的だと考えているんです。恐怖映画で、怖いものが出てくるまでの、あの瞬間、そしてその直前の微分的な時間感覚。例えば、ホラー映画を見たあとにシャワーを浴びていると、あたまのうしろになにかいるかもしれない、きっといる、っていうあの感覚ですね。その感覚が、すごい写真的だと感じる。そういう恐怖の予感を視覚化する、というのが僕のテーマです。
天野 恐怖の一歩手前ってことですよね。それって、すごい未来のことですよ!
三野 そうですね!あ、話が変わりますが、さっきの未来の話と関連して、天野さんに二面性ってないんですか?思うことを、二つ同時に思ってしまう、という風に。
天野 ありますね。ただ、否定し続けて、自制し続けてきたとするじゃないですか。こうじゃない、いやこれはこんなはずはない、みたいな。でも、その部分をぱっと取っちゃうと、どうなるのか、みたいなことはたまに思ったりする。
三野 二つ流れる河の流れがあるうち、一つを止めちゃって、より一つに流れる水の力を増させるようにする実験ということですか。
天野 そうでもあるし、感覚として分かりやすく言えば、地下水脈のように脈々と続くものがあって、普段はそれを全く意識せずに生活していて、作品を作っていくとするじゃないですか。でも、あえて、こっちを見る、ということ。でも、わたしの考えていることはあまり関係なくて・・・。
三野 えっと、ごめんなさい・・・、僕が聞いた二面性というのはちょっと違っていて、わたしではないものによって、写真を撮らされているというふうに感じるが、でも一方で、写真を撮っているのは紛れもなく自分である、ということはありますよね。例えば自分の設定したテーマ、例えば鳥を撮らないといけない、というふうに自分を仕向けているから撮っているのではないか、とかいう二面性ですね。
天野 そうですね。だから、最近は、鳥や自然を撮らないといけない、とかは全く思わなくなったんです。
三野 そうなんですね。んじゃ、そういう二面性はないんですか?
天野 ないですね、最近そういう部分を考えないことで楽になりました。ただ、写真を見て、作品として人に出す時に、それだと弱いというか、勘違いみたいなことは言われるかもしれないけど、それはもういいや、って思うようになってきた。
秦 たぶん、その話に通じると思うんですけど、僕が今展示している昔の作品は、撮った当時はテーマというテーマがきちんとあったものなんです。例えば、子どもの後ろ姿を撮ろうと思って撮ったものであるとか、ある特定の場所を撮ったものであるとか。でも、いま見返した時に、子どもの後ろ姿を撮っているなということよりも、もっと今の自分にも繋がる根源的なものを見ているような気がしてしまった。なんだかんだじゃん、みたいな、8年前の写真を見て、そう思った。
三野 地下水脈問題とも繋がってくると思うんですけど、自分がそこに降りていっている感じなんですかね。秦さんの話も、天野さんの話も。
天野 でも、そこには自分がいる必要はないのかもしれない、と思います。
三野 では、水脈がたまたま浮上してきて、カメラを通してそれがふっと出てきちゃった、みたいなことが良いってことですか?
天野 例えば、ちょっと違うかもしれないんですけど、写真を撮る時の瞬間を考えるとすると、意識と無意識みたいなことを考えるじゃないですか。でも、そこには意識が働いてなくて、とすると無意識もなくて、そこにあるのはただ身体的な反応と外部からの変化だけがある。例えば、鳥が飛んだとか、風が吹いたとか、水面が揺れた、とかの変化に反応して撮ることが多いのではないか、と思います。
三野 なるほど。
天野 でも、わたしが撮りたいなって思うのは、それを抜かしたときのもの。例えば、ブータンに行ったときに、否応なく迫りくる、気というか、これ、いつからいるんだ、すごい、みたいな時に撮った写真を集めたらどうなるのか。それは、自分が見たいんですけど、でもそれが人が見たらどう思うのかってのはとっても興味深いんです。これは確実に、さっきの身体的反応と外的な変化とは全く違う方向にベクトルが進んでいるものだと思います。
三野 秦さんにおいても、そういうのがあるんじゃないか問題を提起してみます。どうですか?
天野 みんなあると思いますよ。
秦 もはや、後付けなのか、前からあったものなのか、自分でも分からなくなってきている部分はあります。混濁してしまっている。ただ、ふと見返すと、オレってこんな人間じゃんっていうのがあったりする。それが嬉しいんでしょうね。たぶん昔の僕は、天野さんがいま話をしていた、身体的な反応だけで撮るという方法であれば、自分が写るのではないかと思い込んでいたんです。だから、天野さんのベクトルの方向は理想的だと思います。意識が働こうが、無意識だろうが、身体的な反応であろうが、気みたいなものであろうが、シャッターを押したのは自分だっていう確信を持てていればいいんじゃないかと思います。そして、見返したりしたときに、自分が写っているような感じがあったり、写真って素敵だなぁって思ったり出来ればいいんじゃないかなと思うんです。
天野 それこそ、言葉と写真っていう風に仰ってましたけど、じつは元々は一緒なんだって、同じイメージなんだって思うんです。
三野 これは僕もそう思うので、分かりやすく言うと、原初っていうか、プリミティブなこととして考えると、なにかを伝える、残す、っていうことで言葉も写真も同じものだと思います。絵を描くこととかも近くなってくる。それは、洞窟壁画の絵にも繋がってくることですよね。
天野 本当にそうで、かつて洞窟の壁画を描いた人は、今の写真と繋がっている。だから、元々は絵画や彫刻や言葉云々はあんまり関係がないんです。人にどういう風に見せるか、というところで、それぞれ関係が出てくるんです。
三野 近代では詩人が特権化されていて、なにかを表現したり、批評するときには、重要なのは詩である、というふうに考えられていた。でも現代においては詩は有効か、という議論がなされるようになってきている。ただ、それはかつての詩と現代の詩とは確実に形式が異なっているという前提がない、という状態での話です。もちろん今でも同じように詩は必要なんです。それこそ、もっと昔、それこそ洞窟壁画を書いている人たちにも同じように詩があったわけです。ただ、もちろんそれぞれ詩の形式は様々な形で変わってきていることが大事なんです。それは、人間っていう古いメディアがまったく今も昔も変わっていない、ということと繋がってくるわけなので。
秦 確かにそうですね。
天野 そう考えると、もっと別の脳みそ使えるわけじゃないですか。
三野 今の話を聞いて、写真でしかできないことってなんだろうって思います。それこそ、写真新世紀のコピーに「写真でしかできないことってなんだろう」ってありますけど・・・
秦 あんのか、そんなもの?って思いますけど。きっと、ありますよね。
三野 秦さんは一方で、他のジャンル、例えば文学や絵や音楽でしかできないことなんかが刺激的だってよくおっしゃいますが、それぞれの形式やメディアでしか出来ない表現があるってことですか?そうすると、写真でしか出来ない表現もある、と。
秦 それを信じたいんでしょうね。そこはロマンチックにいたい、というのはあります。写真でしか出来ないことはないんだ~ってことで諦めちゃうと、それをやり続ける労力が保てなくなる。周りも自分も犠牲を払って、表現なんてものをやっているのだから、せめてロマンチックさと自分の透明さは保っておきたいものです。
三野 天野さんは写真にしか出来ないことって何だと思いますか?
天野 なんだろう・・・いま思いつくのは、それが嘘か本当かは無しにして、未来の資料として見てもらうもの。1000年後に写真が残っていても、もう写真っていうメディアはなくなっているかもしれなくて、さらに写真が目の前のものを写したものである、っていう概念もなくなっているかもしれない。それでも、これはあったんだ、っていうのがパッと伝わる感じ。昔ですが週刊文春に載っていた写真で、ある場所から発掘された写真があってそれが花魁の写真だったんです。わたしはそれを見て初めて花魁って本当にいたんだ、って思った。浮世絵とかで見るよりも、より「いた感」ってのが紛れも無くあった。だから、わたしの写真もそういうものであって欲しいと思っています。
三野 嘘か本当かは無し、っておっしゃいましたが、やっぱりそこも同じように重要だと思います。STAP細胞はあります!っていうのが最近ありましたよね。その根拠が、いまだに写真が嘘か本当かでその真正性を担保されている、っていうことに僕は変な感慨を覚えました。それこそ、実は写真の虚偽性ってのは、デジタル化されたからこそ、嘘じゃね?みたいな感覚がより普及していきましたけど、その技術自体は、ずっと昔からあったもので全然新しくも何にも無い。その時代から写真に真正性はなぜか担わされていたんですよね。例えば、これは、江戸時代の写真です、って言われていたものが、実は現在の技術で作られたものかもしれない。
天野 その現代と江戸時代を一瞬で繋いでしまう時間感覚っておもしろいですよね。もし、人間がずっと1000年後も、人間の形を保っていたならば、人間の写真を見て、あ、これ人間だって思えてしまう。これからのわたしの展示で、ある博物館のアーカイブを見させてもらう機会があったんですね。わたしは美術作品を見るのが、多くはないですけど好きだから、そういう目で見てたんです。でも、それらは絶対に生活と繋がっているんです。いつから、藝術が生活と結びつかないものの方が多くなってしまったんだろうって感じました。わたしの作っている写真や絵っていうのは、なんのなんだ?って思ってしまう。それは脳の記憶と繋がっていくしかないんです。
秦 さっきのお話で加工写真というような話も出ていましたけど、天野さんはそういう写真ってどういう風に見ているんですか?
天野 すごい無責任な言い方を許してもらえるとするならば、わたしには関係ないな、って思ってしまう。そういう写真もあるよねって。でも、写真って技術と繋がっているメディアだから、そういうのもあって全然良いし、素晴らしいものが出来るんだったら問題ない、って感じです。秦さんはどうなんですか?
秦 うーん。例えば、もし写真にメジャー的なものがあるとするならば、同じようにアンチメジャーなものもあって良いと思うんです。そうしないと、流行だけという一神教になっちゃう。そのメジャーなものが正しいかどうかを考えるキッカケくらいは存在していても良いと思います。
天野 それくらいを検証できる脳の容量は空けておけってことですか?
秦 そうですね。僕は矛盾しているから、自分が好きな写真は普通のスナップだったりするんですけど、自分が作るんだったら、それはしなくても良いかなって思うんです。
天野 なるほど。
(ちょっと休憩。ビール二本目を注文する)
秦 今もぽつぽつと色んな話があったじゃないですか?ただ、色んな話といっても、似たような話の繰り返しに思える話。それと同じように、『A letter from 善と悪』でも、似たような話を繰り返しているという印象があるんですよね。写真家同士にしか分からない共有感であるとか、共通認識を、無理にでも言語化して伝える努力をしているだけ、というような。そういうのに良いね良いねと言いながら、いったい僕達は何がしたいんでしょうね?
天野 そうですね。分からないですね。何がしたいんですかね?それこそ、すぐには分からなくて一年後とかに分かるかもしれない。
三野 なんなんだろうな。
天野 でも、勝手な印象ですけど、二人は自分の作品や言葉を理解した上で発信しているのかなと思っていました。
三野 そんなこと全くないですよ。超手探りですよ。
秦 そうそう(笑)ただ、手探りであっても自覚したいっていうのはあるんじゃないですか?例えば、前回(『A letter from 善と悪』8話目)で気が付いたことなんですけど、永遠に僕は演者であって、三野くんは演出家であったと思うんですね。その辺が、『A letter from 善と悪』の難しいところであり、面白いところであったと思うんです。
三野 本当にどんどん役者になってきましたよね。今度、秦さんを舞台に出して、一つ劇を作ろうかと思ったくらいですよ(笑)
秦 それは怖い!(笑)
天野 今、二人が言っている演者とか役者とかっていうのは、どういう概念で使っているんですか?
三野 本当に言葉通りの意味です(笑)映画に出る俳優や、舞台に立つ俳優のことです。
秦 なんか、結局のところ、没頭出来る人間のことを演技の出来る人と呼んでいて、その演技を客観的に観て紐解いたり、導いたりする人のことを演出家と言ってるんじゃないですかね?今の場合は。
三野 そうですね。僕は演じる側にはなれないというのも、あるのかなと思います。
秦 だから、当初考えていた僕の『A letter from 善と悪』のプランとは違った方向に進んでいっちゃったんですよね。勿論、悪いことばかりではありませんでしたけど。その、せいでか、おかげで、これからどうしようかな?と、いう場所で連載も止まっているんですよね(笑)
三野 やっぱり、秦さんと僕で本質的な違いが大きいんじゃないかと思うんですよね。でも、似てる部分もあるっていうのも面白いですよね。
秦 そうね(笑)
天野 あれって、これからも、ずっと続けていくものなんですか?
三野 一応、一年間という期間を決めて始まった話なので、もう半分以上は終わっているんです。
天野 そうなんですね。じゃあ、もう終わりに向けてっていう感じですね。
三野 でも、終着点が見えないっていう状況がありますね。
秦 ありますね。だからこそ、今回、天野さんをお呼びして活性化させようというか、終わりへの道筋を決めてもらおうという形でトークをさせてもらっています。
三野 眠れる美女としての天野さん、っていう。
天野 何をおっしゃいます。
秦&天野&三野 (微笑)
三野 眠れる森の美女っていう終わりもなかなかいいですけどね(笑)
秦 そうだよね。写真は屍じゃない、眠れる美女だって素敵な終わりだよね(笑)
三野 もう、終わってもいいですかね(笑)それか、全く違う方向に振ってもいいですけどね?これからは写真だけになっちゃうとか。
秦 うーん。
(ここで唐突に、現代のゲーテは空ではなくアニメばかり観ているんじゃないかという話になる)
(流れで、三野の高学歴がすごい!という話になる)
(流れで、三野の論文の話になる)
(流れで、笑いが絶えない時間となる)(笑)(笑)(笑)(笑)
秦 そろそろ良い時間ですし、まとめの話へと移行していきましょうか?どうでしょう?僕達のやっている『A letter from 善と悪』は、これからどこへ向かえばいいでしょうか?
天野 今、お互いに演者と演出家になってしまっているのであれば、役割ははっきりしているわけじゃないですか?だったら、その役割を全力でやるしかないんじゃないですか?作家だったら、自分のやりたいことを全力でやるしかないと思うんですよ。
秦 かっこいい。
天野 出来たものが、出来たものだから、諦めずにがんばれって感じです。
三野 確かに。
天野 でも、作品に言葉に批評まで混ざってきたら、それはそれで難しいことなのかなとも思います。
三野 そうですよね。じゃあ、こうしましょうよ?来年の二月か三月にもう展示するって決めてしまって、それまでに自分達に出来ることをしていきましょう!
秦 そういうのは決めたほうがいいよね。うん、決めないと決まらないってやつですね。
三野 そして、天野さんにもゲストとして来てもらいましょう!
秦 いいね(笑)
天野 私は何をすればいいんですか?
秦 なんでしょう?トーク?展示?それとも、もう、居るだけでいいとか?
三野 先ずは、僕と秦さんの展示会ということですから、ゲストとして何かしてもらいたいなって思ったんです。この今の会が、次の会にはどうなるのか?気になりますしね。
秦 そうね(笑)
天野 じゃあ、お二人の展示会を楽しみにしておきます!
秦&三野 よろしくお願いします!
秦 途中に三野君の話でもあったけど、とりあえず、次の返事には文章じゃなくて写真を送ってみようかな?今までの往復書簡がその写真の説明書になり、その後にも写真が続くという形にすると面白そうだし、二人で演劇をするよりも身のある結果に繋がりそうじゃない?
三野 それに僕は批評をするという?
秦 批評でもいいし、写真で往復してもいいんじゃないかな?
三野 そうですね。結局、普通の写真の往復になっても、前の文章があることが大きい意味ですよね。
秦 そうそう。もう先に、共通認識の場所の確認は終えているという状態からのスタートですからね(笑)
三野 そうしましょう!結局は、写真に帰る、という流れで!
(その後、鳥の話。男女の好みの話。そして、写真の話をしっかりとして、この会は終わった)