善と悪 八通目 三野新→秦雅則 (6月12日)





眠れる美女に片思いしている、秦さま




 こんにちは。
 生まれては死に、死んでは生まれるという、螺旋を想像した時に、写真行為とは、その螺旋を一旦止めた上で、ちょっと俯瞰して、落ち着いて見てみよう、という他者に対する問い、というか誘いみたいなものなのかもな、と秦さんのお手紙を読みながら考えていました。「眠れる美女」は、言葉も動きも発することはないのに、それを見てしまう人間達は、なにかの「誘い」によって、その螺旋を想像することにもなる、ということ。これは一体どういうことなのでしょうか。
 そのことを考える前に、まず、今まで幾分散漫のように思えるほど、フィクションと、ドキュメンタリーの境界を縫っていくように進んできたこれまでの往復書簡の各現象に、今回の秦さんのお手紙が、明確な名付けを与えるものだったと感じております。だからこそ、名付けられたキャラクター達の、行く末は、一体どうなるか、を考える必要があるのかもしれません。
 それら、キャラクターたちは、きっと僕たちが責任を持って、生命を与えてあげないといけないはずです。そして、これらをあえて二元論的に比較する、という写真行為に似せて記述してみます。



 ① 『眠れる美女』
 『眠れる美女』という言葉を英訳すると『sleeping beauty』という訳語が当てはまります。これを改めて日本語訳すると、『眠っている美』という言葉にもなる。キャラクターとして考えるときに、「美女」という訳語は正しいけれども、それは「美」という抽象的な概念に開かれた言葉でもあるわけですね。写真において、「美」であることは忌避されるわけで、それは「眠っている」必要がある、ということをいままでのお話をまとめながら考えていきます。
 その「眠っている」状態は、まだ残雪であり、それは「美」ではない、という状態。ただし、その「眠っている」状態は、残念ながら/幸運なことに、おそらく永久に「美」になることはなく、写真である限り、恒久的に潜在的な「美」である、ということになります。



 ② 『不老不死を求める人』
 『不老不死』を考える時に、写真は「死」から始まるわけなので、「不老不死」であることは、永久に写真にはなり得ないわけです。ということは、常に「美」以前に留まりつづける「眠れる美女」に対して、「不老不死」であることは、ひたすら「美」以降にしか生きる術がない状態なのです。このことを考える上で、昔話やおとぎ話において、ひたすら美しい顔や健康的な身体を持ちつづけることを願い、不老不死の薬を探そうとする時の権力者達を想像してみて頂ければいいでしょう。



 ①⇄②
 以上のことをまとめると、「美」という概念を境に、全くの逆の立場のキャラクターとして、「眠れる美女」と「不老不死を求める人」が配置されるということになります。この「⇄」は、①と②が対置されたものである、という関係性を表します。
 ただし、共通点も存在します。それは、共に、永久的な存在である、ということ。
 こう書くと、当たり前の話にも聞こえますが、実はちょっと違うところもあるよ、というより、このお手紙の核心部分になる差異も同時に見えてくるのですが(雪の結晶としての眠れる美女の想定を考えていくと・・・)、それは他のキャラクターについて考えた後に後述します。



 ③ 『屍』『残雪』
 さて、次に『屍』です。「屍」は、写真行為として考えると、プリントした状態であると言えます。ただ、これは「屍」=プリントではなく、「屍」≒プリントである、というのは、既に考えられているところです。また「屍」は、イコール「残雪」とも言えますね。



 ④ 『雪の結晶』
 当初からずっと登場し続けている『雪の結晶』。この写真的な部分や考えは既に考えられている所なのですが、今回このお手紙で付け加えるとすれば(さらに「眠れる美女」との関係性において)、結晶単体の状態では、雪にも、残雪にも、もちろん、屍にもなりえません。つまり、それは宙吊りの、未然形のままの状態である、ということです。そして、そんな状態であるが故に、常に確定すること、死ぬことを留保されたままの状態でいられる、ということです。ただし、結晶は時間的に見ると、永遠ではない、という側面もあります。なぜなら、「雪の結晶」単体を観測することは可能ですが、それは次第に集団となり、雪として目に見えるものとなり、それが積もり残雪となっていく、ということが潜在的に決定づけられているのです。



 ④→③
 ここでの、「→」は、関係性ではなく、④の潜在性が時間の経過によって、常に③になる可能性を秘めているのだが、いまここの状態においては、その可能性は留保された状態で僕たちに観測されている、ということになります。



 さぁ、ここでやっと、①と②との関係性をさらにそこに組み合わせてみることにしましょう。


 ②⇄①=④
 この図で分かるように、①と④が同じであるということによって、最初に述べた①と②の決定的な差異を述べてみることが可能です。つまり、①と②は永久的な存在である、という共通点を持つが、①に関しては、つねに潜在的に変化する可能性を留保している、ということです。
 分かりやすく言うと、「眠れる美女」は、「目が覚める」という可能性を常にその身に宿しながら存在しているキャラクターである、ということです。でも、決して目ざめることはない。



 僕が以上のことを比較してみた時に、冒頭で書いた「眠れる美女」からの誘いというのは、決して矛盾していることではなく、「いつか彼女が目ざめるかもしれない」という、決して訪れることはない、しかし、それは確実に起きるはずだ、という決定的な予感からの誘いなのだ、ということが言えるのではないでしょうか。
 ここで、ちょっと、フィクションに根ざして言い換えてみるために、もう二人のキャラクター。この手紙の書き手である二人の人物も付け加えておかねばなりません。



 ⑤ 『仙人になりたい/眠れる美女に片思いする秦雅則』
 ⑥ 『屍を再生したい/眠れる美女に片思いする三野新』



 ⑤⇄⑥
 ⑤に関しては、秦さんの以前書かれた/以後書かれるであろう一連のお手紙にキャラクターは規定されます/されるでしょう。⑥に関することも、一連の僕たちの往復書簡において述べられている通りです。
 この図では、「眠れる美女」に片思いする、秦と三野は恋敵的なライバルの様相を呈してくるように捉えられるかもしれませんが、「眠れる美女」を「秦」と「三野」という固有名詞と対応するような身体を持つ対象とは捉えられず、一であって全であるような、全であって一であるような「眠れる美女」像をもってする場合、これは恋敵にはならないはずです。それは、無限に増殖する一卵性の子どもたちのような「眠れる美女」たちへの片思いの構図である、とも言える。僕たち自身は一人であるが、片思いの対象はそれぞれに存在する、だが同じである。例えば恋愛シュミレーションゲームに存在するキャラクターを想像して頂けると分かりやすいかもしれません。キャラクターAちゃんは、僕たちにとっては一人だし、Aちゃんも僕たちを一人として見なしてくれるが、それはゲーム上においてであって、実はAちゃんと同じような関係性をもっている人が、沢山存在している、というふうに。



 キャラクター達の定義をし終えた上で、彼ら/僕らの関係性は動き始めます。物語が駆動します。それは、まず「秦」さんの「片思い」から始まるでしょう。「三野」は、それを記述したい欲求に苛まれ、もしかすると不在になってしまう方がいいのかもしれません。


 ・・・と、いやはや、冷静になってみると変な話になってしまいましたね。今回は、僕が交通整理を勝手にしてしまいましたが、前回の「秦雅則」劇場の設定や、科学者と対比して「不老不死」を検証する写真家というキャラクター、などが大変面白く、キャラクター「秦雅則」の物語を勝手に考えてしまいました。ただ、これは書いてしまうと、ちょっとお手紙的にどんどんヤバい方向に行く気もしていて(もちろん全然そうしてもいいかもしれませんが)、ちょっと具体的な物語に足を突っ込む前に、物語のバトンを一回秦さん側にお渡ししたいと考えます。これから、この話、どうしましょうか?なんか、最後は相談みたいになってしまいましたが、秦さん、方向転換したいならいまですよ!




三野 新