三木義一「線に尋ねる」-no.0-





 本州の遥か南、噴煙とともに誕生した新しい島のニュースは、少なからぬ人の興味を惹き起こしたようでした。ダイナミックな映像もさることながら、国土や領海が増えるという事実は思いのほかセンセーショナルなことのようです。私はというと、水面を通して未知から既知へ活動が移行する様子や、そこに至るまでの長い年月ばかり想像していました。

 ぽっかり姿を現す異形の知。私はその瞬間に興味があります。ただ、どうしてそうなのかと個人的な動機を考えてみても、これまでうまく像を結んだことはありませんでした。生い立ちや経験のような後天的なものからではないようなのです。赤ん坊が生まれて間もなく明るい方に目を向けるような、先天的に持っている振る舞いに近いのではないかと考えるようになりました。

 ものを認識したとき、活動する脳神経は一つの部位に留まらず様々な連合野が連動していることが分かっています。身体は動き、感情は振幅をもって揺れ始めるわけです。知ることは、あたかも即興的な踊りのようでもあります。筋書きのない、場と身体の呼応を楽しむような行為です。そうして、あるしきい値を越えたところで、これまで思いつきもしなかった考えを得ることがあります。例えば書店で発見してしまう、オキナワハツカネズミとマルクス経済学、餃子のレシピとオリコンランキングとの間の、一見筋違いの関係。膨大な情報の中からリンクを発見し自由に楽しむこと。そこにヒトの知の源があるような気がするのです。

 今回、本に関した書き物を発表するにあたり、いくらか思案してみた結果、確からしさを一度手放してみようと考えました。ある本に対してある見解を対応させるのではなく、例えばある一語から別の本に行き着いてしまうような、対照を行ってみたいと思うのです。

 それは、いわゆる書評としての体裁は成さないように思われます。それは様々な図法で描かれた地図を重ねるようなものかもしれません。そのねじれや重なりの中に既知と地繋がりになる前の、まだ見ぬ知が隠れているのではないかと妄想しています。




三木義一