阪本勇「猿と天竺」⑩





最終話




身の回りのお金になりそうな物は一切合切全て売り払ったが、写真家のプライドとして、来るはずもない撮影仕事の為にカメラだけは最後まで手元に残しておいた。
「大御所じゃないんだから、今はデジタルカメラ持ってないと仕事なんて来ないよ」と言われ、その当時多くのプロが使っていたデジタル一眼レフを無理して買った。当然現金一括で買えるはずもなく、生まれて始めての月賦払いでの買い物だった。月賦の審査が通った時は声を上げて喜んだ。「審査が通っただけでそんなに喜ぶ人は始めてです。わたしも嬉しくなってしまいました」と店員に言われ、笑顔で握手を交わした。「活躍を期待してますよ」と言ってくれた店員の期待も空しく、そのカメラは結局一度たりとも仕事での出番はなく、生活に困窮した時の質草としてしか活躍の場は与えられず、質屋に持ち込んではお金を借り、すこし余裕ができては質から出すということを繰り返した。そんなことをしているうちに、質屋の店主に顔も名前も覚えられた。その初老の店主は、最初の頃こそ箱を開けて中のカメラを手に取って電源を入れてみたり傷があるかどうか等、子細にチェックしていたものの、顔を覚えられてからは箱を開けもせずに、「今日はいくら必要?」と聞かれるようになった。本当か冗談かわからなかったが、「君が一番の常連だよ」と言われて苦笑した。店内の至る所にフクロウの置物が飾っていた。瀬戸物、木彫り、銅製のものや、フクロウの写真や絵画まで飾ってあった。
「なんでこんなに沢山のフクロウ飾ってるんですか?」
「フクロウはね、ふ、くろうっていってね、ほら、不苦労。苦労しないってことで、まぁ、商売のお守りみたいなもんだよ」と言って、着ている長袖シャツをまくると、腕には立派なフクロウの入れ墨が入っていた。
「アッチ系じゃないよ」と、自分の頬を人差し指でなぞり、ヤクザ者を表すジェスチャーをして笑った。
「昔、客にお金を払えなくなった彫り氏がいて、利子代わりに彫ってもらったんだ。それまでは勤めながら親父の手伝い程度に店に立ってたんだけどね、これを機に勤め人を辞めてこっち一本に絞ったんだ」。



空腹で気が狂いそうだった。何もかも売り払ってしまっていてお金になりそうなのはカメラしかなかったが、収入が途絶えた今、カメラを質屋に預ければ確実に出せなくなって流してしまう。そうなれば、もし撮影仕事の依頼がきても出来なくなる。携帯電話もすでに止められているし、なにより今まで一度も撮影依頼などきたことがないくせに、それが最後の生命線のようにカメラだけは手元に置いていた。とにかく空腹で眠れなかった。夜中、家を出て公園に向かった。砂場を探し、コンビニのビニール袋にカメラと同じ重さくらいの砂を詰めた。家に戻って箱からカメラを取り出し、代わりに砂袋を中に入れてみた。揺らすとさらさらと砂が流れる音が小さく聞こえた。もう一度砂袋を取り出してガムテープでグルグル巻きにして、その上から穴の開いた靴下をかぶせた。箱の中に入れて揺らしてみると、重量も、音も完璧だった。箱を開けない限り絶対にばれないと確信を持った。


心臓が爆発しそうだった。最近は箱を受け取ると中を確かめることなく「今日はいくら必要?」と聞いてきた店主が、その時は重さを確かめるように箱を上下させたように感じた。店主と目が合った刹那、脂汗がどっと出た。店を出た時は安堵感からか膝が震えた。まだ恐怖は完全に消え去ってはいなかったが、企てを成功させたんだという事実にひどく興奮した。強盗ってこんな気持ちなんやろかと思ったが、頭を振ってくだらない考えを消した。振り返って、「いつか必ず出しに来ますんで」と暖簾に頭を下げた。


信用を裏切ってまで守ったカメラも、それからひと月もしないうちに手放してしまった。二駅程離れた別の質屋に持ち込んでわずかなお金に換えた。「元箱や付属品がないならこれくらいしか貸せないよ」と提示された金額は覚悟を遥かに下回るものだった。足元を見られ、悔しさが込み上げてきたがもう他に手はなかった。改めてあの質屋の店主の厚意をありがたく感じた。カメラを渡し、わずかばかりのお金を受け取って店を出た時、もうこのカメラを取り出しに来ることはないだろうと思って質札をコンビニのゴミ箱に捨てた。「俺から写真とったら何も残らへんで」とうそぶいていたのは、隠れ蓑が写真しかなかったからだ。その隠れ蓑ももう無くなった。カメラを手放した者に写真家と名乗る資格等なく、僕は写真を諦めたんだと認めざるをえなかった。今、目の前にシロクマが現われようが、UFOを目撃しようが僕は写真を撮れない。そんなプライドを捨てて手に入れたお金もすぐに底をついて、再びの飢えと暗闇に苦しんだ。


もうこれ以上お金を得る手段などなかった。
お腹が空き過ぎて胃がキリキリと常に痛んだ。誤摩化すために寝ようとしても痛みでなかなか眠れなかった。胃袋が収縮し、真空パックの様にぺたんと張り付いている様な感覚だった。水を飲むと食道を通り胃袋に到達するまでの道筋が冷たくて体が震えた。とにかくなにか食べ物を口に入れたかった。夜中に駅前を徘徊し、誰かが落とした食べかけのホットドックを見つけ、躊躇なく拾い上げて口に入れた。ケチャップの濃い味がたまらなく美味しかった。視線を感じて顔を上げると、向かいの歩道からこっちを見ていた二十代前半くらいのきれいなスーツ姿の女性と目が合った。その女性は逃げるように立ち去って行った。落とした主だっだのだろうか。



僕の父親の時代は今よりももっと質屋が一般的だったらしく、学生時代、生活に困窮すると父親もよく質屋を利用したらしい。「昔の質屋には人情があって、質に入れれるようなもんなんにもなくて、ポケットティッシュ持って行って学校までの電車賃代借りたこともある」と言っていたのを思い出し、僕は立ち上がり裸電球に手を伸ばした。くるくるとひねってソケットから取り外し、耳元で振ってみたがフィラメントが切れた様子はなかった。電気が止められているのだから、生きていようが切れていようがこの電球は無用だった。外した電球をポケットに入れて家を出た。店主が箱を開けていないか、砂袋がバレていないかと不安で再び暖簾をくぐるのは怖かったが、空腹が背中を押した。店主が僕を見るなり「どうしたの!」と言った。それ程に僕は痩せこけていた。「カメラ出しに来たの?」と聞かれて言葉が出なかった。黙って裸電球をカウンターに差し出す。「何も食べてないの?」と聞かれて素直に頷くと、店主は電球を手に取って蛍光灯に透かす様な仕草をし、「うん。これはなかなか上等な電球だ」と言い、カウンターに千円を置いてくれた。無数のフクロウが僕を見つめていた。


質屋を出て、脇目も振らずまっすぐ駅前の牛丼屋に向かった。大盛りか特盛りを注文したかったが、アルバイトを見つける為の履歴書の証明写真代を残しておきたかったので並盛りで我慢した。以前なら特盛りを食べても空腹が満たされないこともあったのに、この時は並盛りで苦しいくらいに腹一杯になった。完全に胃袋が小さくなっていた。久しぶりに味を感じたと思った。牛丼を食べ終えた後、証明写真機を探してお金を入れると手元に百円も残らなかった。「ハイ、撮リマス」という機械が喋り、フラッシュが光った瞬間、僕は目をつぶってしまった。案の定、目の前の液晶画面に映し出された僕はひどい半目状態だった。二回目は、目をつぶらないように気をつけてフラッシュを待った。一回目と二回目の写真が左右に液晶画面に並んだ。どちらも冴えない顔をしていたが、半目状態の証明写真などあり得ず、二回目に撮った写真を選んだ。三分程待って機械から出て来た僕の顔は、液晶画面で見たよりも随分と暗いトーンの写真が出て来た。土色で覇気のない顔をして、生気のない目を引ん剥いた自分の顔を見て恐ろしくなった。脱力感に支配され、もうどうでもよくなって証明写真を破り捨てた。
牛丼を食べたので、久し振りに固形の大便が出るのではないかと思ったが、その晩に排出されたのは泥水の様な下痢便だった。



牛丼の記憶がまだ残っているだけに以前よりもさらに空腹が辛かった。また何か味の濃いものを食べたいと願ったが、電球すらない部屋にそんなものがあるはずもなかった。ふと部屋の隅に置かれた広辞苑が目に入った。十年前に上京してきてから一度も開いたことがなかった。ある往年の俳優が、食えない時代にティッシュペーパーにマヨネーズをつけて食べたことがあったと、本当か嘘かもわからないエピソード話を思い出し、広辞苑に手を伸ばした。部屋にはもうマヨネーズなんてなかったけれど、もしかしたら広辞苑のページを千切って食べれるんじゃないかと思った。手に取り開くと中から茶封筒が畳の上に落ちた。拾い上げて茶封筒の中を覗くと、一瞬にして体中の血液が沸騰したのがわかった。それは上京して来た時に、親父が「餞別や」と言って渡してくれた茶封筒だった。中には三万円が入っていた。


思いがけずの大金は僕を狂喜乱舞させ、気持ちを明るくした。なにか味の濃いものをたらふく食べようと夜の街に出た。不思議なもので現金を持つと気持ちに余裕が生まれて、あれだけお腹が空いていたにもかかわらず、いくつもの飲食店の前を通り過ぎては、何を食べようかと飛び込む店を決めかねた。
駅前商店街を歩いていると、突然女性に声をかけられた。その女性は昔アルバイトをしていた居酒屋にいつも一人で飲みに来ていた常連客で、若い女性が一人で飲みに来るのは珍しかったのでその店の店員みんなと仲良くなっていて、僕にも気さくに話しかけてくれていた。この女性は僕よりも少し年上なだけなのにとても大人っぽく見えた。店員の中でも人気が高く、他の客に声をかけられている姿も何度も目撃した。どういう話の流れからか、副店長と僕とその女性の三人で飲みに行ったことがあった。普段そんなにお酒を飲まない副店長は、女性にいいところを見せようとしたのかその日は滅茶苦茶に飲んで一人で酔っ払った。女性が席を外した時、赤面を通り越してドス黒くなった顔面を僕に近づけると、「ああいう女が浮気には丁度いいんだよ」と焦点の合わなくなった目で僕を見た。副店長は既婚者で、奥さんも時折店に来てくれていたので僕はどう答えたらいいのかわからずにへらへらと笑っていた。店を出て、「もう帰りましょう」と言っても、べろんべろんに酔っぱらった副店長は次はカラオケだと言って聞かなかった。カラオケ店でもその社員さんは飲み続け、甘えるようにその女性に膝枕をせがみ、拒まれるとそのままソファーで寝てしまった。僕が歌わないでいると、「もったいないから」と言って女性は歌い続けた。腕を組んで来たので何か起こるのかと緊張で身体を固くしたが、しかしながらそこから何か始まるわけでもなく女性は腕を組んだまま淡々と歌い続けた。流行歌ばかり歌うのが意外であった。退室時間五分前を知らせる室内電話を切って振り向くといきなりキスをされた。見られたのではないかと狼狽したが、副店長は大きな口を開けて気持ち良さそうに寝息を立てていた。



僕と女性をタクシーに乗せ、「これで帰りな」と言って副店長は女性にタクシー代を渡した。タクシーが走り出すとすぐに女性が腕を絡ませて来て、「家、行っていい?」と聞かれたので、「ボロやし、散らかってるんです」と答えると、「じゃあ、私んちおいでよ」と言った。下心がないわけではなかったが、行ってしまえば副店長に会わす顔がなくなるような気がして、「今日はちょっとやめときます」と断ると腕を強くつねられた。痛みに声をあげると、タクシー運転手が下品な笑い声を立てた。女性は窓の外を見て僕と目線を合わせようとしなかった。その日以降も女性は店に来たけれど、まるで何事もなかったかのように話しかけて来た。僕がアルバイトを辞めてからは一度も会うことがなかった。


「なつかしいなぁ。痩せた?」と、歩み寄ってくるとお酒の匂いがして、程よく酔っ払っているのがわかった。
「せっかくだし、ちょっと飲みに行こうよ。つき合ってよ」
空腹時には食べ物のことで頭がいっぱいで酒のことなど考えすらしなかったが、お金を持ったことで少し余裕ができた僕は、この金で酒を飲むのも悪くないかもしれないと考え、その思いがけない提案に乗っかった。二人で焼き鳥屋に入り、何ヶ月振りかのアルコールに酔った。久し振りなのと空腹のせいで酔いが回るのが驚く程に早かった。気がつくと僕は机に突っ伏して寝ていた。店を出てから女性が会計を払ってくれていたことに気づいた。
「つき合ってくれたからここは私が奢る。そのかわり次行こうよ」と言われ、次の店を考えあぐねていたら、女性は腕を絡ませて、「家は散らかってるからだめなんだよね?」と、無邪気に僕を見つめた。その言葉に、いくら鈍感な僕でも気づかされた。何ヶ月振りかに食欲が満たされたところにアルコールが入った。女の匂いが僕の性欲を刺激した。後はもう、ただただセックスがしたかった。女に先導されるように歩くと、いつのまにかホテル街に着いた。出来るだけ古くさいホテルを選んで中に入った。



東京に出て来て最初につき合った恋人に裏切られ、それ以降、僕はまともに女性とつき合ったことはなかった。裏切りをいつまでも引きずり続けた。何人かの女性と身体を重ねたけれど、信用することは出来ず、むしろなぜこんなにも簡単に体を許すのかという嫌悪感が生まれた。男と女の間にセックスという行為が存在する以上、僕は女性を好きになることが出来なかった。女性と身体を重ねれば重ねる程に女性に対する不信感が増していった。


今、目の前で喘いでいる女は僕のことを愛していないのだと思った。そして僕も微塵も愛してはいなかった。「愛していない、愛していない」と心の中で唱えれば唱えるほどに興奮を覚えた。心の中で何万遍も唱えた。「愛していない」と実際に声に出して女に浴びせれば即座に果ててしまいそうな程に僕は目の前の人を愛していなかった。女が僕の腕に爪を立てた。


「ねえ、有線のチャンネル変えて」
シャワーから出てきた女がベッドの上で横になったままの僕に届くように大きな声を出した。
「わたしこの人暗いから嫌いなんだよね」と女は続けたが、僕はその言葉には答えずスピーカーから流れる中島みゆきを聴いていた。「もう」と、舌打ち代わりの声が聞こえ、続いてドライヤーが熱風を吐き出す音が響き出した。
翌日、昼頃までだらだらとベッドで惰眠をむさぼった。こんなにも暖かく、柔らかい寝床は久し振りだった。ただただ横の女の存在が邪魔だった。



出る時、受付で茶封筒の中からお金を出すのを見られるのが嫌で、「ちょっと先に出といて」と言った。女は一人で表に出るのが気が引けるのだろう、出口の自動ドアの側で待っていた。ポケットから取り出した茶封筒に、フッ、と息を吹きかけて取り出し口を広げ、中から一万円札を取り出すと、紙幣のふちに小さく、定規を使って書いたような父親独特の角張った文字で「ガンバレ」と書かれていた。その言葉に気づき、胸を締めつけられた。体中の血液が全て顔面に集まったかのようだった。情けなくなった。目頭が熱くなり、ぼろぼろと涙が落ちて、茶封筒を濡らした。
このお金を今ここで使っては絶対にいけないと思った。こんなものの為にこのお金を使ってしまったらそこで人生が終わってしまうかの様な気すらした。他の二枚にも同様に「ガンバレ」と書かれていた。一万円札を押し戻し、茶封筒を二つ折りにしてポケットに詰め込むと、僕はそのまま振り返り出口に向かって歩いた。カウンターの中から「ちょっと」と呼び止める声が聞こえた。全身の血液量が二倍にも三倍にもなって体中を急激に巡り出した。自動ドアの前で待っていた女は怪訝そうな顔で僕を見た。再度、背後からの呼び止める声と「アリガトウゴザイマシタ」という機会音が重なった。女の腕を強く掴み、自動ドアが開くと同時に外に飛び出た。背後から誰かが叫ぶような声が聞こえた。僕は女の腕を掴んだまま、ただひたすらに走った。



振り返らずに走り続けた。女はわけもわからず一緒に走っていたが、しばらくして「もう誰も追って来ないよ!」と叫んだ。僕はハッ、として掴んでいた腕を離した。振り返るとその路地には僕と女以外には誰もおらず、誰かが追ってくる気配もなかった。女は膝に手をついて苦しそうに呼吸をしていた。
「お金がないなら言ってくれれば払ったのに」と一気に言い切ると、また頭を下ろし苦しそうに肩を上下させた。
「そういうのとちゃうねん、岐路やねん、人生の」と、乱れた呼吸で言って女を見たが、顔を下げていたのでどんな表情をしているかわからなかった。
女は顔を伏せたまま声には出さず右手だけ上げてバイバイをした。
「ありがとう」と言って僕だけ一人、また走り出した。
心臓が破裂しそうだった。振り返るな、止まるな。止まったら人生終わる。強迫観念みたいなものに追いかけられて僕はひたすら走り続けた。
「ガンバレ」という言葉がただただ怖かった。情けなくて涙が止まらなかった。走って、走って、また走った。もう、どうでもいいのだと思いかけていた人生なのに、止まることが、終わることが怖かった。心臓が巨大なハンマーで叩かれたように痛く、呼吸が乱れ、泣いて鼻水を垂らし、嗚咽を漏らしながらも雑踏の中を走り抜けた。すれ違う人が皆僕を一瞥するのがわかった。



膝が震えても走り、限界が来たら歩き、またしばらくしたら走って、止まらずに進み続けた。気がつけば陽が傾きはじめ、いつのまにか郊外にまで出ていた。ここがどこなのかはわからなかったが、それでも歩き続けた。季節外れのサンダルだったので足が痛くて冷たくてたまらなかった。道路からは少しずつ街灯の数が減っていき、足元はアスファルトから舗装されていない土道に変わっていた。サンダルと足の間に何度も小石が挟まり、その度に小さく声を上げた。夕陽は沈み、街灯は無く、真っ暗な一本道を歩いた。自分以外誰一人も歩いていなかった。いつしか道らしい道はなくなり、平原を進んだ。ポケットに手を突っ込み茶封筒をぐしゃりと握りしめてみた。ライトも何も持っていなかったが、茶封筒の存在はあたかも松明かのように僕の精神を明るくした。もう心は暗くなくなっていた。「ガンバレ」という言葉を素直に受け取ることが出来た。絶望は全て置いて来たかのような気分でいた。


ふと、小学生の時に遠足で歩いた地元の山道を思い出した。山の中腹にツンボ岩と呼ばれているとても大きな一枚岩があった。その岩に触れると耳ツンボになると言う迷信があった。僕が前を通った時、友達が悪戯で僕の体を押した。僕はよろけてしまい、ツンボ岩に手をついてしまった。その友達が「わわわ!ツンボになんで!ツンボになんで!」と気が狂ったように叫んだ。夜になっても手の感触が消えず、朝起きたら耳が聞こえへんようになってるんじゃないだろうかと怖くてなかなか眠れなかった。翌朝、母親の「おはよう」と言う声で目が覚めて、嬉しくて大泣きした。母親は分けもわからず泣き出した僕を笑いながら抱きしめてくれた。


遠足に持って行くおむすびを母親が作ってくれていて、側に立って眺めていたら、すごくすごく小さな、親指みたいなおむすびを母親が作ってつまみ食いさせてくれた。嬉しくて嬉しくて口の中にずっと入れていたら、いつしか形が崩れてしまってわんわん泣いた。


中学の体育の授業で持久走があった。走っていて暑くなり、僕は上に着ていたジャージを脱ぎ捨て半袖になって走った。走り終えると僕が投げ捨てたジャージがきれいに畳まれ花壇のブロックの上に置かれていた。誰が畳んでくれたかはわかっていた。僕に好意を寄せてくれていた同じクラスの吹奏楽部の女の子だった。ありがとうを言えないまま中学を卒業した。


幼稚園の時の演奏会で、僕はアコーディオンに憧れたが、「きみは体が小さいから」と先生に言われてカスタネットを渡されて下を向いて叩いた。


この池の底には地底世界があるんやと、小学生の間で噂されている池があった。夕刻、一人でその池の横を通る時、怖くなって怖くなって振り向かず走って通り過ぎた。


鏡と鏡を寸分の狂いも無く平行に合わせると、夜中0時丁度に鏡と鏡の間を悪魔が光の速さで通り過ぎる。その瞬間を逃さずに鏡を倒して悪魔を閉じ込めると、悪魔は逃がしてほしいがためにどんな願いでも一つ叶えてくれるという。兄が二人で閉じ込めようと提案してきたので、まだ二人とも小学生だったががんばって0時まで起きて実行した。「お前、捕まえれた時のお願い考えとけよ」と兄に言われ、「もう、決めてるで」と張り切っているような素振りをしたが、本当は悪魔が恐くて少しタイミングをずらして鏡を倒した。


悪戯好きの従兄弟にだまされて、ガラス片をダイヤモンドだと信じ込み大切にポケットにしまっていた。まわりにガラスだと笑われてもしばらくは机の引き出しの奥に大切にしまっていた。あのガラス片はどこに行ったか。


近所の山でかくれんぼをしていた時、一人茂みにしゃがみ込んで隠れていたら目の前に鹿が現われて目が合ったこと。


「家出するからな、お弁当作ってほしいねん」と言うと母親は笑っておむすびを握ってくれた。「おかかやで」、「今度はこんぶやで」と、僕に優しく話かけながらおむすびを握る母の手と顔を交互に見ていた。ちゃっ、ちゃっ、と気持ちの良いリズムでおむすびを握る母の手からは、何か目に見えない愛情のようなものを詰め込んでいるように思えた。しゅんしゅん、しゅんしゅん、しゅんしゅんしゅんしゅんしゅんしゅん、、、、、、と、愛情がおむすびの中心に向かって詰まっていくのを見上げていて、その時は何か幸福のようなものに気が狂いそうだった。


立ち止まり、ポケットから茶封筒を取り出して中を確認した。一万円が三枚入っていて、それぞれのふちには「ガンバレ」と小さく、しかし丁寧に書かれてある。がんばろうと思った。どぶさらいでも何でもしてお金を作って、質屋に預けていた箱を取り出しに行こう。その上で、箱の中身は実は砂袋だったことを店主に告白しよう。呆れられるだろうか、怒られるだろうか。それともそんなことはとっくにお見通しなのかもしれない。別の質屋に預けたカメラはもう出せそうにないけど後悔はない。がんばろう。遅くはない、また一から始めればいいのだと思った。がんばろう。


右足の踵に何か冷たい感覚があり、サンダルを脱いでみると大きな穴が空いていた。
夜空にかざすと光明が指した。サンダルにぽっかりと開いた穴から大きな満月が覗いた。





(了)