vol.3「韓国」



2014年4月22日~6月30日


出発前日は母と博多の温泉付きビジネスホテルに泊まった。長期旅行に慣れていない僕の旅立ちが心配だったのだろう。博多港国際フェリーターミナルまで見送ってもらうことになった。搭乗手続きを済ませ、ターミナルから搭乗橋を渡り旅船に乗り込んだ。2等客の大部屋には既に日本人の旅行客がいて、お酒を飲んで談笑していた。ひとりの中年男性が『お?若い人じゃないですかぁ~』と話しかけてきた。話し方、表情、声のトーンなど癇に障る感じがして、あまり関わりたくないと思った。僕の大きなバックパックを見て不思議に思ったのかいろいろと質問攻めにあった。これから世界中の写真を撮りながら旅をするとだけ答えて、僕が今までヌード写真を撮っていたことや、これからも旅先で人々の裸身を撮影するつもりでいることなど、あまり多くを話さなかった。男性は最新カメラの機能性やphotoshopの知識や一般的に言われている写真のテクニックなどを長々と得意気に話すので逃げるようにしてこの場を去り、フェリー内を徘徊した。誰もいない静かな広間があったので、そこで日記をつけることにした。しばらくしてから酔っ払った陽気な韓国人のおじさんに韓国語で話しかけられた。ひとりにして欲しいと思いながらも、韓国語が話せないので英語で聞き返した。おじさん達は民族舞踊団体の舞踊家で、日本に呼ばれて公演に来ていたらしい。僕が日本人と韓国人のハーフであることを話すと、嬉しかったのかお酒やお菓子をたくさん与えてくれた。しばらくして車椅子に乗った初老の男性がやってきて、目が合ったので会釈をすると「こんにちは」と返ってきた。その男性は在日韓国人2世で、韓国の親戚に頻繁に会いに行くと言っていた。そして昔気質の厳格な風格があって、ちょっと怖そうな感じがした。舞踊団体のおじさんからお菓子を貰った時、わりと軽いノリで「サンキュ!」とお礼を言うと、その在日二世のおじさんは「おまえっ!… 」と声を荒げ、怒り露に何か僕にもの申すかと思えば、途中で言うのをやめた。突然声を荒げたので少し驚いたけれど聞こえていないフリをした。舞踊家のおじさんがみんなで記念撮影をしようと言うので、一緒に写ったものの僕の顔は引きつっていた。静かな場所でひとりになりたかったけれど、ここでもやっぱり話しかけられる。どうやら僕は人と関わることにとても億劫になってしまっているようだった。会話をすることも人と目を合わすのも嫌で、終いには船の外へ逃げ出した。これから旅先で多くの人と関わらないといけないというのに、こんな状態で旅が始まろうとしていた。大丈夫か俺?と不安を抱きつつ景色を眺めた。そして朝鮮半島が見えてきた。風が気持ちよかった。



旅に出るまでの1年前くらいから、僕はカメラに触れることもなく、美術館やギャラリーに写真やアートの鑑賞もせず、仕事をする以外はほとんど誰とも会わなかった。SNSにログインすることもなく、家でバラエティー番組を観たり、喫茶店で本を読むか、犬の散歩をして過ごした。30歳にもなるといろいろと考えを見直したくなったのだ。これまでの行いや価値観に、違和感や限界を感じていたのだろう。すべて壊してやりたいと思っていた。自分とはこうあるべきだ。自分とは何か。自分の存在意義を頑に守ろうとしていた。そういった幻影に惑わされているみたいだった。ある人に皮肉交じりに “自分探しの旅”か?と訊かれたことがあった。それに対して僕は“自分のやるべきことは既に分かっている”と答えた。これまでにも多くの旅人たちが “自分探しの旅”と言った切り口で物語を書いてきた。今やそんな在り来たりで分かりきってしまった物語に、自分がなぞられているようで、それを否定したかったのだろう。しかし実際に僕は何が何だか解らなくなっていた。


釜山に着いて、いろんな方面の友人達から噂に訊いていたAGITという団体が運営している事務所に、事前に連絡もせず突然訊ねた。AGITとは初期メンバーのコヌー、ソンヒョらと共に、2003年頃から釜山大学サークル部屋に何となく自然と人が集まって出来たアーティストの集団だ。2008年頃に初期メンバー数名と幼稚園跡地のような建物を改装し、そこをAGITの活動拠点とした。後に若いスタッフも加わり、演奏や展示、パフォーマンスなどを行い、サウンドデモやコンサートを定期的に行っている。そして僕は自分が日本から来た写真家であることを話し、仕事を手伝う代わりにレジデンスアーティストとして彼らの宿泊施設に滞在させてもらうことになった。彼らが拠点にしているその大きな建物には、オフィス、アトリエ、音響機材、展示スペース、宿泊施設なども充実していて、イベントを開催するための機材も一式揃っている。外観や室内は至る所にパワフルで躍動感溢れたグラフィティが壁面の至る所に埋め尽くされていた。しかし僕が訊ねたこの頃、彼らはこの場所を引き払おうとしていて、同じ地域の少し離れた場所に、新しく3つのスペースを設けようとしていた。カフェ、イベントホール、事務所兼ゲストハウスと、メンバー各自が、それぞれの場所で改装作業にとりかかっていた。この場所に人が集まり、新しく何かが生み出されようとしているような予感に、活気に満ち溢れ、気持ちが昂っているようだった。このような彼らを取り巻くムードが、旅立ち始めたばかりの僕と、偶然にもこのタイミングで交差しシンクロしているように思えた。移設のための力仕事や部屋の改装が終わった後、みんなで毎晩宴会のようにお酒を飲んだ。その時に知り合ったソウル出身のウィンディーと名乗る男と気が合った。僕がヌードモデルを探しているけど、なかなか見つからないと嘆いていたら、帰り道の路上で突然全裸になり、さぁ撮れ!と言ってアスファルトの上に寝転がった。その訳の分からないテンションのまま、僕らはタクシーに乗り夜の町へ繰り出してナイトクラブに向かった。モデルハンティングのために僕とウィンディーでナンパをしようと試みたが結果は惨敗であった。この頃、旅客船セウォル号が沈没したばかりで、AGITの移設作業の合間にメンバー総出で街の中心地や釜山大学正門前で、サウンドデモや音楽イベントを行った。事故後の韓国政府の対応を批判し、沢山の命を失った修学旅行生の追悼式を行った。悲しみと涙に震えた怒りの叫びは、聴衆の心髄に迫り一体となって強烈なエネルギーが感情を昂らせた。彼らは音楽や芸術の力で人々に強く訴えかけていた。その様子を見て僕は自分自身についても考えさせられた。これまでの自分がやってきた事は人々にどのように作用してきたか。そして僕がこの先やるべき事は何だろうか。


釜山で最も栄えている町、西面でモデル探しをした。外国でヌードモデルを探すことは初めての経験だった。誰に訊ねてもなかなかみつかる気配はなく、ただ時間だけが刻々と過ぎていった。一人一人声をかけるのは途方も無いことに気づいたので、プロジェクト内容を韓国語で布に書いて説明し、それを無謀にも広場の真ん中にひろげ、ヌードモデルの募集を呼びかけた。案の定、街行く人々に奇異な目で見られ、完全に僕は不審者だった。しかしそれでも何人かが話しかけてくれた。日本のバブル時代に東京で水商売をしていたと言う女性が「私がもっと若かったら撮ってもらいたかったけど、でもそのうち見つかると思うから根気強く頑張ってね」と言って応援してくれた。そんなこともあり励ませれ、3日間ほど同じ場所で続けていたら、英語の発音がとても流暢でバイリンガルそうな韓国人っぽくないアジア人女性が近寄ってきて、僕がハングルで布に書いたプロジェクトの内容をじっくり読み、彼女は「おもしろそう!」と言ってヌードモデルをやってみたいと言った。おおお!やった!ついにモデルが見つかった!と、心の底から喜んだ。僕の目には彼女が女神のように眩しく見えた。不安とプレッシャーでいっぱいの日々から、ようやく救い出されたような気がしてとても有り難く思えた。彼女の両親は韓国人、しかし彼女はロシアで生まれ育った。32歳で4年前から韓国に移り住んで、フリーのカメラマンとして釜山で生計をたてている。彼女と連絡先を交換して後日また改めて撮影について話し合う約束をした。後日、僕らは彼女が指定したカフェで落ち合った。そこには彼女のロシア人の友達もいた。彼女の流暢すぎる英語は僕の英語力ではなかなか聞き取れなかった。上手く英語で撮影内容や彼女の質問に応えれず、苛立ちや不安と言った負の感情に支配され、僕の表情や態度にそれが表れていたのだろう。彼女達の反応からして上手く伝わっているとは思えなかった。ちょっと考えさせてほしいとのことで、結局彼女との撮影は実現することはなかった。ヌードモデルをこの国で探すことについて、何人かの意見を訊いたり反応を見ながら、この国では相当難しそうな気がした。韓国に今もなお根付く儒教観は女性の品行に対して相当厳しいようであった。日本では混浴風呂があったり、エロ本がコンビニで堂々とが並んでいたり、バラエティ豊富なアダルトビデオ、ノーマルなものからアブノーマルな性風俗店も日本中どこにでも点在する。そんな海外から見ると異質でクレイジーな日本を、何の疑いもなく普通の感覚としてあったのが、そもそもの間違いであった。当然韓国のような外国は違うし日本が特殊な国であることに気づいた。しかし始まってしまった以上なんとしても撮影をしなければならない。


ソウルの弘大という学生街はエネルギッシュで、若者が夜遅くまで飲み歩き、毎晩パーティー騒ぎで賑やかだという話を聞き、僕はソウルでのモデル探しに期待を寄せて、AGITのみんなには名残惜しいが釜山を離れることにした。独立門の近くにあるキムチゲストハウスというところに泊まった。ここで出会った中国人の男性スタッフが僕が撮ったヌード写真や、旅の目的や理由に興味を持った。僕が今まで撮影したヌードの作品を見せると、このような写真は見慣れていなかったようで、衝撃のあまりに黙り込んでしまった。僕が韓国でモデル探しているけど、なかなか見つからないと相談すると、韓国の次に中国に行くなら、力になれると言って、上海のアート関係の編集者の女性を紹介してくれた。そのお陰で上海ではモデル捜しに苦労することはなかった。大変有り難い事に僕が上海に着くまでに彼女はモデルを手配して撮影の日時など全て段取りしてくれることになったのである。旅は何が起きるか分かりません。ひょんな事からこんな出会いもある。出来るだけ人に出会ってはヌードモデルを捜していることを話して誰かいないか訊いた。漢江を挟んだ南側にムンレドンという工場地帯があって、このエリアは近年、家賃が安いのでお金のないアーティストが閉鎖された工場を改装し、アトリエ、カフェ、舞台劇場、自主ギャラリーなどが立ち並ぶようになった。この錆びれた町には、鉄屑の匂い、金属音、日雇い労働者、炊き出しに並ぶ人々、真昼間から酒を飲み路上で溺酔してるホームレス、いわゆる日本にあるドヤ街だ。僕はこの場所に移り、安価でアーティストに提供するムンレアートファクトリーという施設にレジデンスで滞在した。1人部屋でウォシュレットもあり快適ではあったが、肝心のモデル探しは苦戦していた。ソウルでさえも、モデル探しは難しかった。韓国人の友人に韓国語で美術モデルの事務所に問い合わせてもらったが、ヌードデッサンのみで写真は断られた。ライブハウスのバーテンがモデルに興味があり連絡を取り合っていたが、やはり最終的には断られた。自分のやり方にも問題があった。不貞腐れて部屋に籠りがちになった。ムンレドンにはモンゴルという劇団が運営するスタジオ兼カフェがある。今年は劇団の活動を休止して人と交流をする1年というメンバー全員の課題だった。彼らと関わりのある人の紹介で、僕もそのカフェに出入りするようになった。そこは飲み物1000ウォン(100円くらい)、食事は3000ウォン(300円くらい)と、とても安かった。アーティストの溜まり場のようなところで韓国でも名の知れた作家が出入りしていたりとても刺激的な環境だった。劇団員のミンキーと彼のギター弾き友達と親しくなり、彼らの手料理を御馳走になり、一緒にキャッチボールをしたり彼らの未発表パフォーマンスの実験役になったりして一緒に遊んだ。韓国では撮影以外にもうひとつやるべき大事な任務があった。日韓ハーフとして生まれた僕は、祖父が生まれ育った故郷を再度訪問し、先祖のお墓参りをしたいと思っていた。そして興高郡まで高速バスに乗って移動した。到着してみると12年前に訊ねた時とほとんど変わっていなかった。雨が降っている中、歩いて安宿を探した。しかし観光客の少ないこの小さな町には安宿はなかった。しかし韓国にはどこにでも24hサウナがあって、風呂やサウナは使い放題で半日900円くらいで利用出来る。そこに掛け布団は無いが広間にはマットと枕があって、雑魚寝は出来るようになっている。以前、親戚が住んでいた住所を訊ねると、既に引っ越していて違う住人が住んでいた。新しい住所が分からず此処でもまた途方に暮れた。バスターミナルで貰った読めない韓国語の地図を見ながら、町役場らしき所を目指して訪ねてみることにした。そして街の役所らしき建物はみつかった。ドアは開いているが、祝日なのか電気が消えていた。従業員がいたので、英語で事情を説明したものの、あまり通じていない感じがした。かつて叔父が住んでいた住所と名前を見せながら説明すると、なんとか伝わったようで、コンピューターに保管されたデータから現住所を探し出してもらった。従業員が親戚に電話をしてくれて、叔父を呼び出した。そして叔父がバイクで直ぐに駆けつけてくれた。親戚と約12年ぶりに再会し、皆でお墓参りに行った。親戚に何を食べたいかと訊かれた時、肉が好きだと答えたら、毎晩、焼肉になった。僕の再従兄弟にあたる26歳の女の子が遅れて会いにきてくれた。住んでる国も言葉も違うけれど、僕と同じ血が流れてるのかと思うと、強い絆を感じずにはいられなかった。ソウルに戻る前日は、彼女と夜遅くまでお酒を飲み、たくさん語り合った。彼女は人懐っこい性格で僕のことをオッパ(おにいちゃん)と呼んだ。妹ができたような気がして自分が少し大きくなれたような気がした。上海への出発日が迫ってきていたし、まだ肝心なプロジェクトの撮影が終わっていなかったので、再びソウルに戻ることにした。突然日本からやってきた同じ血をひいた異国語を話す僕の訪問に、どのように接して良いのか戸惑っていた親戚も、別れ際には家族の一員のように旅立ちを心配しバスターミナルまで見送ってくれた。次は韓国語を勉強して行こうと思った。行きと帰りでは自分の心境に何か大きな変化を感じていた。異国に血のつながりがあるということ、そして自ら親戚を探し出し交流し言葉を交わした。ソウル行きのバスに乗って窓越しに過ぎ去る景色を眺めながら余韻に浸った。


ソウルムンレファクトリーの同じホステルに滞在していた南アフリカ人のダンサーに以前ヌードモデルを探しているという話をしていて、彼が撮影に興味がある韓国人の女性のダンサーを紹介してくれることになった。彼女はとても忙しくて撮影の日程がなかなか合わず、結局上海に発つ2日前に撮影することに決まった。これでなんとか韓国でやるべき仕事を無事に終えて上海に行けるだろうと思っていたが、しかし彼女もまた撮影の当日にキャンセルになった。僕の英語での撮影の説明も十分に通じていなかったし、コミュニケーション不足が何よりもモデルの不安になる要因で信頼関係が築けていなかった。しかし最後の最後まで諦めずに、残された時間がある限り、出来る限りの事は手を尽くそうと思った。突然、FaceBook経由で知らない人からメールが届いた。実は一ヶ月前にタクシーで携帯を失くしていて、僕の携帯電話を預かってるとわざわざ連絡をくれた。今まであまり良い事は無かったけど、韓国の親戚に再会して以来、気持ちが前向きになっているのを自分でも感じていた。あれ以来、何でも出来るような、根拠はないが妙な自信が芽生え始めていた。ソウルで知り合った韓国在住の日本人の絵描きの友達に頼んで、彼がFaceBookでモデル募集を呼びかけてくれた。上海に発つまで残すところ36時間しかなかった。その友達と、奇跡を信じて連絡を待ちましょうと言いながら様子を見ることにした。そうすると夜中に彼から連絡があって、いきなり「奇跡が起きるかも!」とメッセージが届いた。モデルがみつかった。そしてモデルと時間の都合もついて、撮影の段取りも決まった。今では珍しい韓国の古家を撮影場所に使わせてもらうことになった。無事に出国前夜ギリギリで撮影は始まった。モデルになったスジン•ヨーは奇抜で挑発的な電子音や舞踏を混ぜ合わせたパフォーマンスアーティストだ。彼女はヌードになることで韓国のコンサバティブな社会に対して反抗しているように見えた。僕自身もそれに応じるように撮影に挑んだ。僕自身ずっと感じていたプレッシャーからも開放されて、ある種のハイな状態になっていた。それは日常を超越した現実から引き離された異空間に身を投じるようなスリリングな撮影だった。撮影が終わって、いつの間にか知らない人が沢山集まって宴会状態になっていた。沢山お酒を飲んで騒いだ。韓国最後の夜は最高に楽しかった。フラフラになるまで酔っぱらい、深夜3時頃に宿へ戻り、そのままベッドに眠り落ちた。設定していたアラーム音に気づかず、目が覚めた時には既にフライトの2時間前だった。ヤバい!飛び起きて完全に目が覚めた。バックパックに荷物を詰め込んで、急いでタクシーを捕まえた。慌てた僕を察したタクシードライバーは、任せとけと言わんばかりに裏道くぐり抜け、高速道路ぶっ飛ばした。仁川国際空港に向かう橋の上から見える朝日に海面が照らされてキラキラと輝いていた。その美しい景色を眺めながら安堵感に浸っていた。全て上手く行った。韓国でやるべきことは何とかやり遂げた。これは大きな自信に繋がった。旅はまだ始まったばかり。この先どうなるのか全然想像つかないけれど、いつ何が起きるか解らないこの状況で、僕はその都度必要に応じた行動をとるだろう。そして辿り着いたその場所が、僕の在るべき未来だ。